ゲームのはなし諸次第

パラドゲーのAARを置くつもりの場所

家一のこと①(1547年~1560年)

山新府普請のこと

奉行に率いられた雑役夫が、巨石を心棒で担ぎ上げ運んでゆく。戸室山から切り出された良石はノミで美しく整えられ、日差しに青白く光っていた。

「エイ!オー!エイ!オー!」

声を上げる度に、男たちの筋肉が力強くしなる。

家一は、担ぎ役らに交じって自らも汗を流していた。身の丈六尺余り、力量十人力の家一の剛力に人々が驚嘆の声を上げる。

富樫家一
富樫介 北陸4か国を治める大大名
本願寺九世法主の真如三男だが
伯父親家の養嗣子となり富樫家を継いだ

家一が自ら汗を流しているのは、この尾山新府の普請に家一自身が力を入れていると諸将に示すためだ。大げさにでも、時には将自らが動かねば臣下が付いていかないこともある。

尾山城
いわゆる史実の金沢城

これらの運び出された石は、すべて尾山城の石垣に用いられることになっていた。浅野川犀川に挟まれた小立野台地の先端部であるこの地を、家一は要衝と見て新たな政庁に選んだのだ。

いずれここには武家屋敷が立ち並び領国の要となるだろう。その目的のためには、家一は手段を選ばぬ男であった。

遷都
なお旧首都の野々市と同プロビ内なので
ゲーム的な意味は一切ない*1

家一が木陰で体を休めて汗を拭っているところに声をかけてきたのは、叔父の富樫四郎家友であった。

「普請は順調なようで重畳ですな」

家友は笑顔を向けてつづけた。

「宴でもしませぬか、実を言うと家益も呼んでおります」

富樫家友
四郎 能登末吉城主
先代親家の庶弟
この時には家尚を名乗っているが家友で通す

政敵からまさかの誘い
なお家益はいとこで親家猶子

もともと家友は家一と因縁浅からぬ男だ。かつては家一と家督継承を相争って敗れたいきさつがある。今でこそ家一が当主となったが、これを簒奪と噂する者もいた。思わず近習らの顔はこわばる。

しかし家一は二つ返事でこれを受けた。

「叔父上、ぜひお願いしたい。我が屋敷へと招待しよう」

富樫家系図
家一には義理の叔父と
いとこ達がいる(猶子なので義兄弟でもある)

宴は思いのほか朗らかな雰囲気で進んだ。はじめは酒が進まぬ様子であった者達も、いつしか話に花を咲かせていた。そんな中で家友はポツリと声を漏らす。

「兄の親家は、私を嫌っていたのだと思うこともあった。だから家を継がせたくないのだと。所詮、腹違いかと恨むことさえあった。

しかし今では…ただ私心なく富樫のために家一殿を選んだのだと考えるようになったのだ」

これは他意のない言葉のように聞こえた。家友の心根の実直さ優しさが大いに現れていた。

義理の家族との団らん

家一は微笑む。

「義父上は生前、家友を実の叔父と思え、家益らを実の兄弟と思え、富樫を生家と思えとよく仰っておりました」

「うむ…私も実の甥にそうするように仕えたいものだ」

「如何にも」

「さて…時に家一よ、かねてより案じていたがお主は気位が高い。しかし士大夫たる気位と慢心を取り違えてはならぬのだぞ」

「いや!早速叔父上に叱られてしまいましたな」

「はっはっは」

一同が声を上げて笑う。こうして宴は朗らかなまま終わった。

家友を屋敷から送り出すと、家一は外で警固役を務めていた稲葉永通を呼び出した。

稲葉永通 
六郎 美濃揖斐城主
富樫家の目付を務める
如才ない男で家一に陰に陽に重用された

まだ青年と言っていい歳ごろだが、口は髭を蓄えて真一文字。内面の厳格さを思わせる眼光が鋭い。静かな、石のような男である。

その頃には家一からもすっかりと笑みは失せていた。

「六郎、首尾はどうか」

永通は声を潜めて答える。

「すべて抜かりなく。射手はもう位置についております」

家友を狙う陰謀

「しかし、よろしかったのですか?」

「構わん。仮に叔父上に叛意がなくとも、その子その孫がどうなるかはわからんからな。すくなくとも彼が今死ねば富樫の家は十年は割れぬ」

数刻後、凶手にかかり家友は死んだ。射手は一向宗門徒の手の者だとか能登地侍だとか様々な風説が流れたが、結局家一によるものだと確信できた者はいなかった。

家一はまさに手段を選ばぬ男だった。

天文法難に、富樫介上洛すること

天文19年(1550年)、京でおかしな風聞が流れた。

本願寺門徒が富樫家一の軍勢を借りて入京するというものだ。この時の都では町衆らを主に法華宗が力を持っており、この空説は彼らに甚だしい敵意を引き起こした。

結果、時の管領細川氏久と結んで、山科本願寺の焼き討ちに向かう事態となったのである。

細川氏
日向守 管領細川家当主
当時の事実上の天下人であったが
既に老境に差し掛かっている

本願寺法主・真如は独力でこれに立ち向かうも、細川氏久の軍勢は一万を超えて衆寡敵せず、栄華を誇った山科の地は焼き落ちようとしていた。

家一はすぐさまこれを救うべく軍勢を率いて京へと上ることとした。

天文法難

援軍へ
「親愛なるライバル」とは…

臣下にはこれを驚く声もあった。もとより家一は実父・真如と義絶の仲であり、それゆえ富樫の養嗣子となった来歴があったからだ。

生家への愛惜の念があったのだと言う人もいれば、兵を送らねば加賀の門徒らにも申し分が立たぬからだと言う人もいた。

いずれにせよ、家一は雪に鍛えられた二万騎でもって、細川勢と伏見の地で向かい合った。

家一の初陣である。

伏見の戦い
富樫勢2万 VS. 細川勢1万5千

この合戦で家一は見事な大将ぶりを見せる。本願寺を攻囲する細川勢を周到に取り囲み、老練さで知られた氏久を破った。山科の地を守り通したのだ。

これには家一を坊主だ都人だと日頃侮っていた輩共も鼻をあかすことになった。

勝利!

戦が終わると、家一は山科の御堂で実父・真如と十余年ぶりに顔を合わせることになった。だがこの頃には真如は病と老いで臥せっており、言葉を交わすこともできなかった。

家一はその様子を目にすると、すぐさま京を経って加賀へ戻った。「義絶を解いていただくことも、もう叶わぬか」そう声をこぼしたという。

本願寺真如
本願寺九世法主
かつての親家の盟友
そして家一の実父であった

江北で干戈交わり、北国動乱すること

この伏見の戦いで自信を得た家一は、今は亡き義父・親家の遺志を継ぐべく動き出した。つまり、波佐谷公方を擁して京に上り天下に号令することである。*2

足利行氏
二代目波佐谷公方
親家が擁立した義忠の子

足利家系図
義視流が波佐谷公方としてつづく
古河公方など各地の他流は断絶している

天文20年(1551年)のこと、家一は再び京に上るため諸将を伴って加賀を出る。上洛の途上にある近江国管領細川家の領国となっており、兵を以てこれを抑えることとした。*3

無論、幕府軍は迎え撃つべく富樫領国へと逆侵攻をかけた。美濃市橋で両者はひとまずぶつかり、家一は難なくこれを下す。

市橋の戦い

しかし、揖斐川を挟んで二度目の対陣となると様子が変わる。幕府軍を率いたのは、山陽細川家当主の相模守義晴。

若さゆえの采配か。家一はこれを渡河して攻撃してしまう。

揖斐川の戦い
前線指揮官や兵力をキチンと配置する事を
プレイヤーが忘れてたのが痛い

富樫勢は攻めあぐねて総崩れ。家一の側近中の側近であった稲葉永通の居城・美濃揖斐城が落城することになったのである。

この事態に、加賀で留守役を務めていた永通が家一の本陣へ訪れた。

永通を前にして、家一は叔父・家友の言葉を繰り返した。

「気位の高さと慢心は違う、叔父上が生きておられたらまた叱られるな」

「……」

平素は偉丈夫として知られ堂々とした家一が、すっかりと小さくなっているように見えた。

「すまぬ永通、揖斐はきっと取り返すゆえ」

「殿、私はそんなことを申しに参ったわけではございませぬ。美濃の押しあいには構いなさるな」

これには本陣の者どもは家一含め皆驚く。

「加賀につながる越前ではなく美濃を攻めるのは、京方が尻込みをしている証左! むしろ我が方は近江へ攻め込むべきですぞ」

「……永通の申す通りだ」

再び家一の瞳に気力が宿ってきていた。

方針転換
近江制圧で戦勝点を狙う

さらにその後の戦いで雪辱は果たした

とはいえ戦は家一の初めの思惑を超え長引いていた。そんな天文23年(1554年)のこと、再び永通が報を携えて近江へやってきた。

「京方の勢いが留まる様子がございません。美濃へ再度送ってきた兵はおよそ一万」

またか…と家一はため息をつく。年を重ねるほど富樫の兵は減る一方だが、幕府軍は逆だ。

このままでは近江を保つどころか越前、ひいては加賀すら危うい。

逆転した兵数
封臣軍主体の幕府は兵数回復が早く長期戦では分が悪い

「さらに…申し上げにくいのですが、越中守護代の椎名胤照殿がご謀反。さらに軍奉行の温井親宗殿も同心の由。長年の戦に耐えられぬと…」

「馬鹿者どもが!」

越中の諸将の一部この兵乱に加わった。これでは上洛どころではない。

能登越中の反乱
敵は幕府1万5千&反乱軍5千が敵に

椎名にせよ温井にせよ、親家に取り立てられ北陸平定に尽力した者達だ。一世代以上上の家老格であり、かつての家友派であった彼らは、養嗣子に過ぎず強権に振る舞う家一を面白く思っていなかった。

そこに近江攻めの不調が響いたというわけだ。

椎名胤照
六左衛門 越中半国守護
椎名庶流だが親家に取り立てられ家宰を務めていた

温井親宗
左近衛将監 鳳至城城主
親家の娘婿で軍奉行

当主権限制限を要求する反乱

南北で富樫勢は挟まれ、まさに必死の形勢に思えた。

続けて言葉を発しようとする永通を置いて、家一はすぐさま陣を飛び出した。

「どちらへ!」

「尾山へ戻る、ついてこれる者だけついてまいれ!」

小姓馬廻数人だけを伴って、家一は加賀へ馬を走らせた。尾山へとたどり着くと、領国各地の真宗御堂へと早馬を出した。

被官らは兵をこれ以上は出せない。直轄の兵も削れ切っている。そこで門徒の軍勢を使おうというわけであった。

僧兵を雇う

400貫もの金が支払われると門徒たちはすぐに応え、甲冑姿で尾山に集った。*4かつては富樫家を苦しめた一揆勢だ。加賀越中合わせて1万を超える数だった。これに富樫勢が加われば2万。幕府軍にも十分伍する。

家一はまずは叛徒に対処すべく越中へ向かった。千久里で富樫勢2万と椎名・温井勢7千がぶつかり、見事に家一は敵を破った。

千久里の戦い

反乱の平定

家一は謀反者たちを意外にも許した。首謀した椎名胤照こそ蟄居処分としたが、温井親宗は許して再び軍奉行として用いた。

内乱終息後の評議会
義兄・親宗を復職させたほか
右筆にかつての家友派筆頭の堀江景規
家宰に家友庶長子の家規を用いて融和路線を取る

そのまま家一は、京方が攻める越前敦賀へとむかった。京方1万2千は敦賀の狭隘な浜に陣取っており、美濃で家一を破った細川義晴がこれを率いていた。

家一はそれを見下ろすように木ノ芽峠に布陣する。

「者ども、細川は仏敵である!」

門徒らから成る富樫勢を前に、家一は大音声を発する。

「仏助法祐を信じよ!山科法難の折の勝利を再び遂げようぞ!」

「「おおおおおお!!」」

敦賀の戦い
今回は家一も前線指揮官において準備万端で臨んだ

富樫勢は勢いに任せて攻め下り、京方は支えきれず敗走した。さんざんに打ち破られた京方の首級は4千とも5千とも伝わっている。

この勝利によって京方は近江を捨てざるをえなくなった。無人の野を行くように家一は瀬田の橋までを抑え、上洛はあと一息と相成ったのである。

ようやく勝利!
長い戦争になってしまった…

近江侵攻後の富樫領国

波佐谷殿本意を遂げて、家一を三位に上らせること

近江国ではこの頃、北半国守護・京極氏も南半国守護・六角氏も管領細川家によって没落させられており(京極は隠岐へ六角は伊勢へ本国を移した)、代わりにその守護権を委任されていたのは管領細川氏久に重用された僧の恵悟であった。

別当 恵悟
延暦寺を領する事実上の近江守護
京極被官の浅井家の出だが
才覚を買われ管領細川家に仕えた

管領細川家のかつての当主・細川政元比叡山延暦寺と対立すると、自らの息のかかった僧を別当として延暦寺に送り統制した。

以後代々の別当管領細川家の近江支配の要となり、当代がこの恵悟だったというわけである。

無論、家一と反りが合うはずがない。

家一との反目

家一は彼を比叡山から排するために動いた。近江国の国人らは恵悟についたが、あくまで止む無くといった様子。大きな戦にはならなかった。家一は比叡山を焼き、あえなく恵悟は落ち延びていった。

比叡山焼き討ち

恵悟は逃げ出していった

こうして、京極も六角も延暦寺さえも駆逐された後の、均されて安穏な近江国を家一は手に入れたわけである。

さて、同じころ右筆の堀江景規が若狭から戻ってきた。

堀江景規
丹波守 越前堀江城城主
落ち着き払い弁舌さわやかな老人

先々代・政親の頃から右筆を務める重臣中の重臣である。家一入嗣の折には色々と悶着もあったが…いずれにせよ今は家一によく仕えていた。

「武田上野介殿に目通りかないましたぞ」

武田達信
上野介 若狭守護
京方に与していたが…

「して、上野介殿のお答えは」

「我が方に転ぶとの由に」

「でかした丹波よ!」

若狭武田への調略

寝返らせることに成功!*5

「諸将に文を出せ。近江で軍を整えて上洛へ向かう」

「はっ」

弘治3年(1557年)のこと、近江と若狭を平定し上洛の準備を済ませた家一は、兵一万余りで瀬田橋を渡り粟田口を超えてどっと京へ入った。

従うのは中央に温井親宗、右翼を稲葉永通。家一自身の本陣は左翼に置かれた。まさに富樫勢総出といった陣容である。対する京方も両細川の当主、頼以と義晴が出陣した。

山科の北で両軍は合戦を構えた。

はじめ京方4千は岡崎あたりで応戦したが追いまくられ、次いで鴨川まで押し込まれ、あげく温井親宗の手勢に切り崩されて、歴々1500余りが討ち死にした。

岡崎の戦い

勝利!

京方は退いて300ほどの小勢で室町の御所に籠ったが、家一はこれを焼き出して破り、その勢いのまま上京も下京も抑えてしまった。

結局細川勢は将軍を連れて、山陽道を通り本国へ下っていった。

室町の包囲戦にも勝利

まもなく山城国は全て落ちて、家一の上洛戦は終わりを迎えた。

合戦が終わると家一は下々の兵に厳重に乱暴狼藉を禁じ、整然とした振る舞いで京の市中を警備させたから、人々もこれを歓迎した。

上洛の完遂

この時の富樫領国
近江若狭に加え山城も得た

時勢が落ち着くのを待ち、富樫家が奉ずる公方である足利行氏も入京し、六条の本圀寺を仮の居所とした。行氏は家一を招くと三献の礼でもって馳走し、みずから酌をし、剣を下賜した。

「富樫介の忠勤は天下に比類がないものだ。今後ともひとえにお主を頼みにするほかあるまい」

「もったいなきお言葉にございます」

更に家一は感状を授かった上で、行氏の推挙を受け従三位左京大夫にまで上った。末代までの面目である。

叙任の折、家一はまさに天下人といった威儀で輿に乗り歩騎を引き連れ内裏へ参内に向かったが、都人はその様子を一目見ようと山を成して見物した。

上洛直後の家一

十余年前、まだ家一が京にいた頃を知る者たちは「山科のうつけの三男坊が、今や天下の富樫三位とは」と感心して目を細めたという。

【家一のこと②(1560年~1571年)につづく】

*1:実を言うと、同プロビ内で州都を変えただけでは遷都にならず、首都固有建築物を建てることができません。今回はどうしてもロマン的に尾山城(金沢城)を建てて首都にしたかったので、一旦もともとの首都である野々市城を今にも死にそうな独身の延臣に与えるという面倒な手段を踏んで野々市城の首都判定を消して、その後野々市も回収しました。

*2:ゲーム仕様上のことを言うと、京都周辺の北畿内を領地に収めることで帝国級タイトルである将軍号へのクレームを得やすくなります(正確に言うと、北畿内王+1王位か西関東王位+1王位か、あるいは4王位でクレーム請求へのディシジョンが解放されます)。そのためNMIHプレイヤーは自然と、上洛か鎌倉制圧へのインセンティブを持つことになります。

*3:NMIH独自の公爵級侵略CBをつかいました。法律技術を一定以上あげると、公爵タイトルを対象にした侵略が可能になります。

*4:門徒の僧兵は一向宗門徒しか雇えない上級の傭兵…のはず。自信はありません。騎兵はいないが豊富な重装歩兵が特徴。

*5:NMIHでは一定の条件を満たすと、他国の封臣を寝返らせることができます。右筆の関係改善コマンドは寝返りのために非常に有用です!同じ理由でSwayもよく使います。

親家のこと②(1527年~1547年)

親家、波佐谷公方を奉じて兵を興すこと

幕府方は親家の動きを初め軽視していた。細川元有を主将とする兵3000程度を先触れに北陸へ送っただけだった。

これは富樫勢によって塩津の地で破られる。

塩津の戦い
畿内からの玄関口・木ノ芽峠を越えられる前に
突出してきた初期兵力を削っておく

富樫の勢兵力は京方の予測を大きく上回っており、それを可能にしたのは一向宗を用いた家中統制による、その広大な直轄領であった。

この戦いには波佐谷公方を支持する河内の畠山義英や西国の大内義興が参戦の援軍が加わっており、富樫勢は10000を超えていた。

大内義興
左衛門督 西国の大大名
その子弘親と親家娘が婚姻し同盟を結んだ

畠山次郎義英
義就流畠山当主
親家の義弟

こうした事態に、京方はようやく重い腰を上げて18000を差し向けた。親家は幕府軍越中まで誘い込むと、越中国の千久理の地で両軍は向かい合った。

京方を率いるのは、塩津の地で惨敗を味わったばかりの細川元有。また与力に越中守護・畠山尚順がついていた。

細川元有
右京大夫 山陽の大大名
老練な名将として知られた

畠山尚順
相模守 政長流畠山家当主
畠山義英とは父の代よりの宿敵

「元有殿、早く攻め上がりましょう」

尚順の鼻息は荒い。富樫勢が狙うのは尚順の領する越中であるから気が気ではないのだ。それに対岸の富樫勢には、かねてからの敵・畠山義英の姿が見えた。

「いやいや待たれよ相州殿、当地は峻険。しかも上庄川を挟んでおる。こちらから攻めればそれこそ富樫介の思惑にはまる」

「しかし、このまま冬が来れば京に戻ること能いませんぞ。富樫介はこの地の者だが、我らはそうもいかない。なに所詮は連中は寄せ集め。少しばかり突けば崩れる」

「うむ…」

確かに元有にも焦りがあった。長く京を離れ続ければ、細川氏の主導権は管領・細川義春に傾くかもしれない。尚順の戦局観それ自体は古強者の元有には馬鹿馬鹿しかったが、この戦さを早く終わらせなくてはならないのは事実だった。

結局元有は上庄川を渡河し富樫勢へと襲い掛かった。

千久里の戦い
京方18000 vs. 富樫勢22000
高地防衛&河川防衛でバフを稼ぐ

この判断が過ちであったのはすぐに分かった。

親家は京方18000の攻勢を見事に耐えきる。何度かの渡河のたびに京方は兵を減らし、やがて中央が攻めつかれて敗走した。

京方中央が瓦解する
今回は中央に兵力を集めておいた

氷見の地は落ちて、京方は諦めて兵を引き上げていった。この大きな勝利は親家の権勢を大いに高め、その武辺は五畿七道に知られたという。

この戦いで親家は将才を発揮した
直接的な指揮官(中央を率いると士気ボーナス)がつく
翼将と並び個人的には非常に使いやすい指揮官特性

富樫勢の中には元有の粗略を謗る者もいたが、親家はむしろ元有の勇を讃えた。

「元有殿ほどの名人でも誤ることがあるのが、武略の恐ろしさなのだ。上庄川を渡っていたのは私かもしれぬ」

千久里の戦いののち、越中氷見郡は陥落。これによって北陸で京方の勢力は減じ、さらに享禄2年(1529年)にも親家は兵を集めて越中射水郡を落とした。

その折、親家は京に上洛も果たしたが上京を焼くとすぐに退いたという。

続く射水侵攻でも勝利
日本国内で最大兵力の足利幕府に連勝!

京都攻略

親家の勢いはもはや留まることがなかった。同5年(1532年)には斯波氏配下となっていた能登畠山を攻撃した。

能登制圧

右筆の堀江景規はこの攻撃を正当化するため、「家祖・富樫高家公が等持院殿(つまり足利尊氏)に、中先代の折に能登国を恩賞に与えられていた」旨を記した書簡を加賀の古刹で”発見”したが、こうした強弁を最早誰も笑い飛ばすことはできなくなっていた。

足利幕府と戦争しつつ
能登二郡の請求権を捏造していた
侵攻宣戦事由は最初は1郡ずつしか獲れないので
バニラ的な請求権捏造も並行して使うと時々役立つ

これによって親家は加賀、越前、能登そして越中西北部の3ヵ国半を領国とした。世の人は彼を細川や畠山に伍する大大名と呼ぶようになったのである。

父・政親以来の悲願が成就したことを、親家は何よりの誇りに思った。

富樫家の拡大
加賀・越前・能登に加え越中2郡を支配下

晴れて北陸の大大名に
王国級タイトルを創設した

この頃の富樫親家
朝廷にも献金を欠かさず従四位下にまで上った
拡張に沿って位階と法改革ボーナスで直轄領を増やす

親家、再び細川と陣を構え犀川を渡ること

「妙哲よ、しばし館をあけることになる」

「またですか!当分戦はないと思っておりましたが」

「ああ、京で事が起きてな。鷹に興ずる間もない」

親家は少ない余暇で鷹狩りを嗜んだ

1535年(天文4年)、富樫親家は忙しく甲冑に身を包んで野々市の守護館を出た。

将軍・足利義貞が逝去したのだ。両細川が擁立したのは義貞の弟、藤義であった。

足利藤義
教養ある文人将軍

しかしこれは無論、近年講話したばかりの波佐谷公方擁す親家に越中国侵攻の口実を与えることになったのだ。

越中国征服戦争
北陸の大大名となったので
北陸のde jure公爵領を丸ごと宣戦事由にできる
義貞の死で停戦期間が早々に終わったのはラッキー

京方は再び北陸へと兵を送った。この頃になると両細川の当主は交代しており、元有の子・元常が京方の総大将を務めていた。親家は兵を既に集めており、両者は加賀大野で犀川を挟んで対陣した。

京方18000と富樫方18000。天は不吉に曇っていた。「なにやら此度の戦さには、嫌な予感がする…」親家は身震いをしていた。

大野の戦い
ほぼ同数の戦いであった
操作ミスで誤って渡河攻撃になってしまう

親家の悪い予感があたる。与力の畠山勢が左翼から突出し渡河し、撃退されたのだ。このままでは敵による包囲が完成する。

親家は急ぎ自らが率いる中央に兵を集中させると、元常の本陣を攻めた。この攻勢が凌がれれば総崩れである。親家自身も白刃を振るい、京方の雑兵たちを掻き分けていった。

「かかれかかれ! 諸勢、遅れれば武士の名折れぞ!」

そう大音声を発し馬を走らせる親家に、旗本衆が主君を死なせまいと続き、更にそれに置いていかれまいと士卒連中が続く。

中央突破
直接的な指揮官Traitを生かし中央に戦力集中
中央のとんでもないダメージに注目!
左翼が崩れていたので一か八かだった…

対する元常は千久里での父の汚名を雪ごうと、采を振るいつづけた。京方左翼が本陣の救援に向かう。

しかしそれが間に合う前に親家は本陣になだれ込んだ。元常を始めに歴々の将が討たれ、京方は総崩れとなった。ほとんど奇跡といってよい勝利であった。

大戦果!
京方8000近くが戦死
総大将の細川元常を打ち取る

元常嫡男の頼尊が大将を引き継いだが、もはや親家に抗することはできなかった。いくつかの散発的な戦いが続いたのちに越中国から京方は一掃されたのである。

親家のもと拡大する富樫家
能登に続き越中を制圧

この成果に満足した親家はすぐに加賀へ戻った。

右筆の堀江らと新たに従属した越中国人の処遇について協議せねばならない。それに越中国守護職補任について波佐谷公方と相談する必要もある。

しかし富樫館で親家を迎えたのは、堀江でも波佐谷でもなく、目を赤く腫らした妻・妙哲であった。

嫌な予感は当たった。

「落ち着いてお聞きください、あなた様。平六が…」

継嗣早逝し、富樫家中動揺すること

平六は、親家にとって唯一の男子である。妙哲が40を超えて身体に鞭打ち産んだ、初めての男子だったのだ。

ただ、元より体が弱い子であった。

嫡男・平六の死

呆然とする親家だったが、そうもしていられない。富樫館に家老や奉行らがを集め「継嗣をどうすべきか」と問うと、口火を切ったのは筆頭家老である右筆・堀江景規。

「弟君の四郎殿がお継ぎになるべきかと」

富樫四郎家友
能登国末吉城主 親家の庶弟
心優しい正義の人で家中で慕われる

家中の圧倒的支持*1

親家には3人の弟がいたが、この時存命であったのは庶弟の家友ただ一人であった。いわば富樫一門衆の筆頭である。

ほかに富樫庶流の出で家宰を務める大野城主・豊家なども同じく家友を推していた。

富樫本家家系図

「しかし、家友は真宗を信仰していないではないか」

親家がそう言うと重臣らは押し黙った。富樫の家法は、当主と宗旨を違う者をいつでも改易の対象とする。二代続けて真宗の当主が続けばどうなるか、非真宗門徒家臣らは不安がっていた。

堀江景規も富樫豊家も非門徒である。ゆえに非門徒の家友を推したとみられた。

改宗させようにも「揺るぎない信者」補正が…

それならばと、親家は早世していた同母弟の子、橘五と太郎と源四郎の3人を自らの養子とすると語った。中でも長子の橘五を継嗣にすべしと説いたが、これは家中で十分な同意を得ることができなかった。

真宗門徒の甥を養子を取る

しかし集まらない支持…
成人していない男子は投票されづらい
土地を与えるとマシになるが幼君は簒奪される恐れもあり避けたい

「皆は、私が間違っていたと申すのか」

重臣らは目を伏せる。親家は唖然とするほかなかった。真宗と結んだ事が領国安定と富樫の家の強勢に資したはずだ。

父の遺志を曲げてでも成した功績である、そういう自負が親家にはあった。父は古い男だったからそれが思い浮かんでも成せなかったのだ、とさえ思っていた。

そんな自分を否定されたように親家は感じた。

「しばし一人にせよ」

親家は諸将を下がらせる。そちらがそうなのであれば、こちらにも考えがある。

山新介、義父と共に諸将を同心せしむること

天文15年(1546年)の京都、真宗本山・山科本願寺。その堂宇の奥の一角で親家は真如と対座していた。かつて二人を結びつけた義母・姉小路宗如の葬儀以来、久方の対面である。

「して、何用ですかな?義兄上」

真如
本願寺九世法主
親家にとって義弟にして長年の同盟相手
この頃はまだ存命だった

「甥御の与三郎に娘の椿を娶らせたく」

「顕一ですか。構いませぬが……」

言葉を濁らせながら真如は続ける。

「あれを法嗣にすることはありませぬぞ。次の法主は兄の一承か一考にと考えております」

「真如上人とは折り合いが悪いと聞いたのは、間違いではありませんでしたか」

「あれには手を焼いて仕方がございません。弓馬に執心で、経文を読みもしない。天下国家を論じるばかりで、宗務は疎か。育て方が悪かったとしか」

本願寺顕一
本願寺法主・真如の三男で義理の甥
何故か本願寺家は畿内僧侶文化を捨てており
法名ではなく諱を名乗っている

「それはそれは…。ただ、もし武家に生まれていれば、良い大将になったでしょうな。弓馬好みは武功を助けたでしょうし、大志を語る言葉が無ければ兵卒も忠心を持たぬものです」

驚きに目を丸くする真如。親家はそのまま続けた。

「顕一を、我が養嗣子とさせていただきたい」

「…なんと」

親家の考えはこうだった。富樫本家と本願寺法主家の縁は今や濃い。その上で甥で娘婿となれば顕一を養嗣子とするだけの正統性は、薄くとも無くはない。

「わかりました。元より義絶するつもりだった者です。富樫の御家を継ぐというのであれば、あれの不行跡も少しは改まるというものでしょう」

「ありがたい」

養子に同意*2
「御父上、よろしくおねがい申し上げます」

家一と富樫家の血縁関係

さて京にいた頃の顕一は随分な瀟酒で、異風の出で立ちを好み、舶来の猩猩緋の羅紗に朱鞘の長脇差を差して雑賀・根来の若輩を伴に連れ歩き「傾奇者」と専ら評判であった。

しかし加賀へと下り野々市館へやってきた顕一は、折り目正しい直垂に侍烏帽子で金銀拵えの太刀を差した立派な武者ぶりであったので、「器量人と見た殿の目は正しかった」と近習らは噂したという。

さっそく親家は顕一に偏諱を授け「家一」と名乗らせると、自らの養嗣子とした。*3

家中の家友派・非門徒派への、明らかな対決姿勢である。もちろん家一への家中の支持は初め広がらなかった。

異文化で非嫡出子かつ養子である家一を嫌う者は多い

親家は自らの体がすでに朽ちようとしていることを感じていた。焦りがある。このままでは家友が家を継ぐ。あれも決して悪い男ではないが…。

恐らくそう長くない

「義父上、某に考えがあります」

「申してみよ」

親家は痛む体をおして、昼夜問わず家一と諸将説得の方策を練った。親家は家一の語った策を上策とし、実行に移すことにした。

「なるほど存外、真如上人の賢才を最もよく継いだのはそなたかもしれぬな」

「お戯れはおやめくだされ…」

まず加賀尾山城を家一の居城とした上で能登一国を与えた。能登を与えたのは、家友本人を家一の与力陪臣の身とすることで継承に意見できなくするためだ。

同時に朝廷に働きかけて自らは左京大夫の任官を受け、家一には富樫氏嫡流の家職・富樫介を称させる。*4

富樫家一
富樫介 尾山城主および能登郡代
「位階を持っているボーナス+20」を獲得
更に領地持ちなら地元文化への変化も狙える

更に諸将を金子でもって「説得」。加えて家友派の頭目の一人と目される庶流の富樫豊家を、家臣の妻を手籠めにした乱行狼藉で蟄居処分とした。

賄賂で親家への忠誠度を高めて
「好きな領主の判断は信用できる+60」ボーナスを狙う

またもや妙哲の名捕縛
所領は没収し
真宗門徒の嫡男・資家に与えた*5

すると、すぐさま家友派は割れた。元より家中の大多数は真宗門徒である。こうして家中は家一継承でまとまる形となったのである。

後継者投票で過半数獲得
家友を暗殺すればもちろん話は早いが
忠実でよく尽くしてくれたので気が引けたし
親家の死までに間に合うか怪しかった

この顛末を市中の口さがない者らは悪し様に噂した。

「累代の菩提寺を替え、血も替えたとなれば、富樫の御家は本願寺に乗っ取られたようなもの。妻や娘婿に唆され、富樫左京は亡父の遺志を二度も曲げたのだ」

しかし、そうした風聞を耳にしても親家は少しも動じることはなかった。親家が鬼籍に入ったのは、そのすぐ後のことである。父を超えようとし、父を事実超えた男は満足して死んだ。

【家一のこと①(1547年〜1560年)につづく】

*1:男系合議制単独相続は、NMIHオリジナルの継承法。当主と直臣と評議会が投票者となり、最多投票の男系男子が単独相続します。投票者は候補者との関係や性格など、さまざまなファクターに応じて投票先を選びます。当主は後継者指名で、任意の候補者にボーナスを与えることはできますが確定させることできません。

*2:養子システムはNMIH独自のもので、実子の後継者がいない場合一族の男子や娘婿を養子にすることができます。他にも様々な要素でできたりできなかったりしますが、きちんと把握はできていません…。また同様の条件下で実子を他家の養子に出すことができます。この養子押し込みは様々な戦略上のアドバンテージに結びつきますが…これまたあまり使ったことがなく詳細はよくわかっていません。

*3:偏諱を与えるディシジョンは、威信と引き換えに家臣の関係値を大幅にあげます。その値なんと+50! 正直ゲームバランスを壊しかねないほど強力なので基本縛っているのですが、今回はロールプレイ的に与えた方がそれっぽいという理由で与えました。なお家臣の立場で偏諱を賜ることもできます。

*4:官位システムについて補足。NMIHには位階と官職を得るディシジョンが存在します。位階は直轄領規模を増加させ、官職は様々なステータスボーナスを与えます。官位はキャラクターの所持タイトル数・ランクや年代に応じてアンロックされていき、上位の官位は非常に強力。また史実の家職も再現されており大変素晴らしいシステムです! この富樫介もそうした家職の一つで、公爵級タイトル持ちかつ富樫氏だけが獲得可能です。

*5:豊家捕縛後一領だけ残した状態で資家にタイトルを与えておき、その後最後の一領も剥がして資家に与えました。蟄居&家督を譲らせた…というロールプレイで、ゲーム的な意味はそれほどありませんが、私はよほどのことがない限り譜代や一門の処分はこんな感じでやっています。

親家のこと①(1511年~1527年)

近江守、右京兆と謀って幼君を逐うこと

繁栄する加賀国

加賀国・宮腰の湊は今日も賑わっている。

ここは北陸道と塩硝街道の結節点であり、古くから地域で重要な湊であった。しかし守護に復権した富樫氏が街道や宿場を整備すると、更に活気付いて諸国の産物で溢れるようになっていた。

石川の交易所
NMIHにて交易所はバニラ以上に重要
数個分の直轄領の収入になる*1

野々市の守護館から程近いこの地に、親家はしばしば訪れた。京の風聞を聞くためである。加賀に在国するようになって久しい親家よりも、北陸道を行き来する商人たちは耳聡い。

富樫親家
富樫介 加賀及び越前国
野心と若さに溢れる誇り高い青年

「六角近江守殿が公方様に弓を引いたというが、誠か」

「誠にございます…それだけではなく右京兆様もご同心する大騒ぎで…」

「なに細川殿までもが!」

御用商人の一人が語るには、京で大きな政乱があったという。

永正8年(1511年)のこと、まだ元服前の将軍・足利小四郎が近江守護の六角近江守と管領細川政元によって廃されたのだ。

鈎の陣のことで六角氏が今は亡き義尚公を恨んでいたのはよく知られていた。

永正の政変
近江から土佐に至るまでが将軍に反旗を翻した

足利小四郎
足利義尚の嫡孫
まだ元服前のわずか6歳の将軍だった
のちの肺を病んで近江粟田で逝去

六角近江守
近江守護 諱は知られていない 
鈎の陣で敗れた六角高頼の子

管領細川政元は新将軍に小四郎の伯父であった足利義貞を擁立した。そして義貞に代わって幕政を取り仕切った。

六角近江守以上にこの政変で利を得たのは、結局は細川であった。

細川政元
右京大夫 管領
永正の政変ののち幕政を恣にした

故義尚公の覚えめでたかった富樫氏にとっては許しがたいことだが、加賀在国の身ではどうすることもできなかった。

「また、これはご当国のことなのですが、近頃兵糧米の買い占めの動きがございまして」

そう商人が続けると親家はそれを遮った。

「いや、みなまで言わなくともよい。朝倉の者共のことであれば掴んでおる」

うごめく陰謀

同じ頃、富樫氏領国でも陰謀の動きがあったのである。

先代・政親に降伏したの朝倉氏の残党が、越前を再び手中に戻さんとつけ狙っていた。加えて一向宗門徒が加賀でも越前でも騒がしく、いつまた一揆を起こすかわからなかった。

朝倉惟景による越前奪還の陰謀
のちに越前の領主の多くが陰謀に加わった

時々起きては頭を悩ませる一揆

首謀者を捕縛すれば一時の安寧を得ることはできる。しかし朝倉氏の残党らが越前への請求権を持ち続ける以上いずれ挙兵するだろうし、一方的に処断すれば今は親家に従う者ら他家に内応するかもしれない。

親家の治世はその始めより内憂を抱えていたのである。

親家、家中粛清のこと

こういった事態を解決する策を親家に授けたのは、正室の妙哲であった。

妻・妙哲
本願寺蓮如の娘
父に似て知恵者で知られる
目付の役についていた

「政親公と同じことをなされればよいのです」

「父上と同じ…とは?」

妙哲の語った策はこうだ。この時、富樫氏の家法によれば、当主と異なる宗旨の者の領地を召し上がることができた。元を言えばこれは先代政親による一向一揆・両御山懲罰の家法だった。

翻って言えば、一向宗に帰依してしまえば親家はそれ以外の宗派に与している朝倉氏残党を排除できる。

相変わらず有効な称号剥奪法

無論、一向宗への帰依は危険も伴う。禅宗にせよなんにせよ、大多数である殆どの仏教徒との関係は悪化するだろう。他にも様々な不都合も考えられた。*2

「恐ろしい女だな!しかしおもしろい」

「ふふふ。あとは殿にお覚悟があるかどうか」

「無論ある。山科の弟君にも伝えておいてくれ。彼との盟もより固くなるだろう」

真如
大僧都 本願寺第8世法主
妙哲の同母弟で父や姉に劣らない才知の持ち主
親家とは同盟関係にあった

そこから親家の行動は早かった。

石川郡の一郷を本願寺に寄進して新たに寺を建立させ、富樫氏の新たな菩提寺としたのだ。また加賀国中の本願寺派の諸寺を復興させて、先代・政親の一向宗禁制の裁定を翻した。

改宗威信500を引き換えに
地元の一向宗に改宗した

加賀国中はこうした親家の振る舞いを看過した。彼の行動は全て法に拠っていたし、そもそも加賀の凡下民草は一向宗門徒がほとんどであったからだ。

「これで加賀は一向宗の国だ…父上が見れば卒倒するだろうな」

首都の開発を兼ねて寺を建てる
NMIHはバニラより開発に必要な資金が少ない*3

富樫領国の国人らは、こうした親家の動きに従うもの少ないながらもいた。越前国では堀江景規、美濃国では稲葉通貞、能登では温井続永である。

彼らはかつて朝倉氏の配下でありながら、親家によってそれぞれ右筆と軍奉行に取り立てられた者であった。

堀江景規
右京亮 越前堀江城城主
富樫氏の越前侵攻ではいち早く従い
朝倉氏残党の陰謀にも一度も加わらなかった

改宗
評定衆の内二人が改宗してくれた

しかしそれ以外、つまり朝倉氏諸家らはこれに猛反発を見せた。目付の妙哲は彼らの一部を野々市の守護館へと集めた上で、謀反の疑いありとして直ちに捕縛した。歌会と称した場に鎧武者を忍ばせて不意を打ったと言う。

越前大野郡の朝倉維景を筆頭に、4名が所領没収の上追放となった。

妙哲による見事な捕縛劇

それが済むと、親家は残る者らにも宗旨違いの故で所領召し上げを通告する。これに対して朝倉本宗家の当主だった定景は越前と能登で兵を挙げた。

永正14年(1517年)のことである。

加賀騒動
朝倉氏諸家は親家の家中粛清の動きへ対抗したが…

この挙兵は全く功を奏しなかった。親家の軍勢が6000を超えたのに対し、朝倉方の兵はわずか2000余りであった。しかも京からは、山科本願寺の僧兵らが援軍として越前に入っている。

反乱軍との圧倒的な勢力差

一年も経たず敗れた朝倉氏残党は、それに連なる多くの者らと共に越前一乗谷城で自刃し果てることになった。

加賀騒動の終わり

朝倉諸家の自刃
NMIHでは反乱者は戦争後すぐに処断しないと
自害されて所領没収できない場合がるので注意

富樫家中の粛清はこれで終わり、親家の支配権が確立された。

朝倉氏の遺領のうち越前の足羽や敦賀といった要地が親家の直轄領に組み入れられた。また、富樫方として奮戦した堀江景規などに新領が与えられたほか富樫一門衆が各地に配されたのである。

加賀騒動後の富樫領国
10郡以上の直轄領と3つの交易所を抑えた

親家はこれ以降何かあれば必ず妙哲を頼るようになり、妙哲は常にその期待に応えて良き助言者となった。

父同士が相争った加賀の地で、子である二人の愛は確かなものになっていったという。

芽生える夫婦の愛

将軍家御門葉、加賀へ下り公方と称されること

大永6年(1526年)の冬のことだ。この年の加賀の国は寒さ厳しく、その日も十間も歩けば肩が雪で白く染まるほどの天候であった。

そんな中、僧形の男が下男の一人だけ供に野々市の守護館の前までやってきた。身なりはみすぼらしいが、落ち窪んだ眼窩の奥の瞳に貴顕の風情がある。怪しむ番兵は追い払おうと声をかけた。

「ここは加賀守護、富樫様の御居館である。御坊がいずこの人か知らぬが庇は貸せぬぞ」

すると富樫家右筆の堀江景規が、館から慌てて飛び出してきた。

「待て待て待て! この方は殿がお招きした御仁! 通しなさい!」

「…はぁ。この法師がですか」

それでもじろじろと法師を眺めつづける番兵を、冬というのに大粒の汗をかきながら景規は押し退けた。「さささ、外は寒うございますから」と僧形の男を館の中に招き入れる。

「これはとんだ粗相をいたしました。あの番兵めは罰しますゆえ…」

「よいよい。今の余はただの法体よ。むしろあの者、良い働きぶりではないか」

法師は静かに笑みを浮かべる。景規は思わず額の汗を拭った。

「勿体ないお言葉にございます…」

「さて、富樫介は?」

「こちらでございます。殿も義忠様をお待ちに」

この僧形の男の名を、足利義忠といった。

足利義忠
足利義視の子で義材の弟
父と兄は既に亡く義視流最後の男子

将軍家御一門、今出川殿こと足利義視の次子。紛れもない貴人である。本来であれば上京の実相院にて出家の身だが、その義忠がなぜ加賀野々市館にいるのか。

その訳は京の混乱にあった。

細川政元
管領専制の発端となった人物
彼の元で細川氏は大いに発展した

かつて幼公方を放逐し、以後政権を担ったのが細川政元であったことは既に書いた。その政元も、大永4年(1524年)に逝去した。彼には実子がなかったから、細川家中は管領職後継を巡り真っ二つに割れた。

細川一門の長老格であった細川義春が結局は管領となったが、中国諸国は細川元有についたのだ。

細川義春
陸奥管領かつ北畿内及び四国の大大名
細川阿波守護家当主

細川元有
右京大夫 山陽の大大名
細川和泉下守護家当主

この細川氏の内紛は、時の将軍・義貞が細川義春の手のものによって近江朽木谷に幽閉されてしまう事態にまで発展する。公儀政道は乱れ、天下擾乱は甚だしい。

そういうわけで京から逃れた足利義忠を、親家は加賀へ迎えたのである。義忠は居所とした波佐谷松岡寺から「波佐谷御所」とか、単に「加賀公方」などと称された。

波佐谷公方擁する親家の同盟者たち
かつての義視の支持者の面々が加わる

親家が天下京畿に野心があったかといえば、そうではない。確かに彼は両細川が恣にする今の幕政との対立姿勢を深めたが、その狙いは北陸諸国にこそあった。

あと4郡で手が届く!
北陸の王国級タイトル

北陸で最も優勢な大大名になることができれば、両細川と伍する格を得ることができる。そのためには能登を抑えることは当然として、越中も取らねばならない。となれば越中守護畠山氏、ひいては幕軍と戦う必要がある。

つまり先の波佐谷御所の擁立は、この戦いの大義名分づくりの意味合いがあった。*4

合戦を前にして、親家は重臣らを富樫館に集めて語った。

「此度の戦いで、私は父の成せなかった事を成す」

京から見れば、富樫は今や逆徒である。負ければこの地には帰ってこれないかもしれない。しかし、その覚悟が親家の目には輝かせていた。

「父は亡き義尚公に忠節を誓ったが、それを果たしきれぬまま世を去った。私は代わって義忠様の御剣となり、細川から諸国を切り取って見せよう」

氷見侵攻*5
ついに幕府軍との戦い

大永7年(1527年)、親家は分国中の兵10000を集めた。新たな時代が訪れようとしていた。

親家のこと②(1527年~1547年)につづく

*1:NMIHの交易所はとにかく重要で、直轄領は交易路がたくさん通っていて尚且つ交易所を建てられる場所を優先して領有すべきだと思います。さらに交易路は当該の郡内の領地に収入面や兵力面でバフを与えてくれます。バニラでは基本的にスロット数で直轄領を決めると思いますが、NMIHでは「スロット数的には大したことないが交易上の要地なので強い領地」が存在するので注意すべきです。

*2:具体的にゲーム仕様上の事を言うと一向宗仏教徒は異教関係になるので、他キャラとの関係値にデバフがついたり、外交アクションにマイナス補正が入ったりする。また政親が使ったような、一地方を丸々切り取れる強力な「服属戦争」は同一宗教の相手にしか使用できないので使えなくなります。何より、もし富樫氏のように「異教徒の領地は没収できる」法律を採用している家の傘下に入ってしまったら大変なことに…。

*3:領地開発は首都を優先すべきですが、更に言えば首都に複数の城郭タイプ男爵領を立て全て直轄化するのが私は好きです。首都の城郭は、首都以外の城郭に比べ数倍の兵力などをもたらしてくれます。この戦略はnlf36さんのCK2AAR「リューンの赤旗のもとに」で知ってからずっと実践しています。バニラでは開発を行わないタイプのプレイヤーの方でも、開発速度が早いNMIHでは首都に城郭を立ててもいいかもしれません。

*4:ゲーム的に言えば将軍家への請求権持ちを手にしていると、その人物を将軍にする戦争を起こすことができます(今回はしませんでしたが)。この戦争に勝利すると、新将軍の臣下になることを選ぶこともできます。

*5:NMIHにはいくつかの独自の宣戦事由があります。侵攻はその一つで、徳を消費して郡を対象にした戦争を起こすことが可能。またその上位互換として、公爵級を対象にする宣戦事由もあります。これらの宣戦事由は法律技術によってアンロックされていくので、NMIHでは法律技術は多くのプレイヤーにとって優先順位が高くなるでしょう。

政親のこと②(1499年~1511年)

姉小路邸の密約のこと

京都

明応8年(1499年)のこと、政親は久方ぶりに京へと上っていた。表向きの上では将軍義尚、そして義父・姉小路基綱への挨拶である。

京の西大路姉小路邸にたどり着くと、仕丁の少年に客間へと通される。主人である基綱がそこで待っていた。

「富樫介殿!」

「御義父殿、お元気な様子」

簡単な挨拶を終えると、京での噂話に花が咲く。基綱は歌人として高名で歌会には度々加わるから事情には詳しい。「ところでどうか、歌は少しは上達されたか」「いえ、某には歌会よりいくさ場の方が似合う様子でして…」「ほほほ」。

そう言葉を交わしていると、ふと加賀の国のことに話が及んだ。

「聞けば、加賀はまだ騒がしいとか」

「いやはや…埒があきませぬ」

明応の一向一揆

政親の顔が険しくなる。確かに加賀の騒乱はいまだ収まっていない。つい昨年加賀郡で再び一向一揆が起きている。

門徒らの気勢は衰えぬわけだ」

「それに今は私に服しているとはいえ、降伏した加賀の住持らもいつ反乱を起こすか信用が置けず…」

加賀郡中3郡が
本願寺の住持の領地

客間に一人の尼が通されてきたのは丁度その時であった。かの人こそ、二人が今か今かと待っていた人物だった。

姉小路宗如。基綱の実妹、政親正室・済子の叔母。そして、かの本願寺蓮如正室である。

姉小路宗如
本願寺大方殿

「お久しゅうございます、基綱兄様。そしてお初にお目にかかります富樫介殿」

政親の顔が自然と引き締まった。基綱は仕丁の少年に合図を送り、戸を固く締めさせた。

「うむ久しいな…それでは早速だが始めるとしよう」

富樫と本願寺。なぜかつての敵方同士が対面しているのか。

事の始まりは、本願寺第8世法主蓮如上人の死である。

加賀・越中・摂津の各本願寺領を失い無念の死

本来はその跡を継ぐべきであった蓮如五男・実如は既に鬼籍に入っていた。ゆえに継承が問題となった。当時、すでに成人している蓮如の子には三男・蓮鋼や四男・蓮誓がいた。

彼らは先の戦い以降、京の本願寺本山の統制から離れ加賀国門徒を従えて「両御山」と呼ばれていた。

本願寺蓮綱
蓮如三男
加賀江沼郡 山田寺住持

本願寺蓮誓
蓮如四男
加賀能美郡 波佐谷寺住持

彼らにはとある疑いが持たれていた。

他の成人していた兄弟らへの暗殺疑惑だ。京で蓮如の傍に仕えていた六男・蓮淳や、両御山体制に不満を持ったとみられる弟の加賀本泉寺住持・七男の蓮吾が相次いで殺されていた。

本願寺法主の継承をめぐる陰謀である。

兄弟間での暗殺?

本願寺本山と加賀両御山が対立するこの状況で、蓮如が継承者として選んだのが最晩年の末子・真如であった。わずか6歳の法主である。

本願寺真如
蓮如最晩年の末子
京でも評判の神童だった

実際の政務は、真如の生母・姉小路宗如が摂政としてあたることになった。本山を率いる宗如にとって、両御山は脅威である。いつその刺客の刃が幼い我が子に迫るとも知らない。しかし排除しようにも加賀に直接働きかける事はできない。

そこで白羽の矢が立ったのが、同じく加賀一向宗に手を焼いていた政親というわけであった。

「盟を結びましょう。政親殿には両御山の懲罰をお願いしたく思います。本願寺一門といえど、遠慮はご無用でございます。本山はそれに関知いたしません」

政親はうなずく。基綱が懐から起請文を取り出す。政親と宗如は互いに記名し、それを焼いた灰を酒に溶かして飲み合った。

政親の嫡男・九郎丸と
真如同母姉・妙哲が婚約し同盟成立

 「この政親に万事お任せくだされ。両御山退治、しかと承りました」

こうして本願寺本山と富樫守護家との間に、姻戚関係と同盟とが結ばれた。我が子を守るためにはどんなこともする母の決断だった。

ここから長享の一揆の頃には考えられなかった、本願寺と富樫氏の新しい関係が始まっていく。

姉小路家も介した本願寺法主家と富樫氏の繋がり

加賀へ戻った政親は、さっそく暗殺の咎で蓮誓を捕縛した。そのうえで残る蓮鋼らが抑える加賀郡能美郡を召し上げるため軍勢を送った。もちろん両御山に従う門徒らはこの動きに反発し、挙兵を図った。

しかし本山の支援を受けられない情勢では衆寡敵せず、あっけなく守護方によって鎮圧された。

一向宗ご禁制の触れ
法改正で仏教徒以外の異教封臣の領地を
ノーペナで剥奪できるように

領地剥奪に対し蜂起する一向宗系封臣達
江沼郡の蓮誓は事前に捕縛し蜂起できない
更に本願寺本山と婚約同盟を結び参戦を防ぐ

両御山と称された蓮綱と蓮誓兄弟は、あっけなく共に領地を失い落ち延びていった。

こうして加賀国は政親の手によって完全に掌握され、一向宗の政治的な権勢は排除されることになったのである。

問題なく鎮圧

蓮綱達は落ち延びていった

政親、越前へ兵を進めること

加賀を鎮めた政親には次なる大望があった。それは北陸諸国の一統である。北陸は加賀のほか、越後・越中能登・越前の5国からなる。

この地を富樫氏のもとに置くことができれば、細川氏や斯波氏など幕府の重鎮らと肩を並べることができる。

狙うは北陸の王国級称号
全37郡中半数以上を支配すれば名乗れる
まだ黄色で囲われた5郡のみしか領有していないが…

これは何も夢物語ではなかった。応仁の乱以降幕政は荒れ、各国の守護同士が相争い、国人らが守護を追い落とす世が来ている。世に言う「戦国」の世だ。

事実、隣国越前国の朝倉貞景は能登国の数郡を横領していた。

朝倉貞景
山城守 越前守護
のん兵衛だがよき武人

その領国
越前一国と能登に広がる

これを討つ。

朝倉氏は確かに強盛ではあるが、政親はいまや加賀国の全てを自らの直轄領としていた。長享の一揆の頃から比べて3倍以上、6000の兵を集めることができる。

また、外交に訴えれば更なる味方を得ることもできるだろう。政親は娘を河内大和の総州畠山氏へと娶らせることでその援軍を得ることにした。彼らの助力があれば、互角以上の戦いになる。

永正3年(1506年)、政親は加賀より兵6000を率いて越前へと出兵した。

永正の越前合戦
臣従化戦争は生涯一度に限り王国級de jure全体を
標的にできる強力な宣戦事由

娘婿・総州畠山家の義豊が兵10000もの大軍で参戦

緒戦は越前大聖寺において戦われた。畠山勢が着到する前の合戦であったためほぼ同数であり、両軍とも総大将たる政親と貞景が率いた。

政親は中央と右翼を薄くし、左翼を厚くとる陣形を敷いた。自身が率いる中央が耐え抜くうちに数で勝る左翼で敵勢を抜く策だ。

富樫勢6000も朝倉勢5700も共によく戦ったが、武運は政親に味方する。

大聖寺の戦いで勝利
狙い通り朝倉勢両翼が敗走し包囲の形に
CK2ではどこかの翼を突破することが大事だと思う
「攻撃的」の指揮官traitのおかげで不利地形にも攻勢に出れた

政親の嫡男・九郎丸が元服し、親家と名乗ったのはこの頃の事である。朝倉氏との大聖寺の戦いは、親家の初陣となった。

親家は体格逞しく弓馬を好み、武門の誉れ高い富樫の名に恥じぬ武者ぶりの良い青年に育った。*1

富樫親家
勇敢で勤勉なまずまず理想的な後継者
「父上に劣らぬ武勲を目指さねば」

政親が余勢をかって朝倉氏の本拠一乗谷へ雪崩こむと、多くの敵将が降ってきた。その中には朝倉氏庶流の景明など一門衆の姿さえ見られたほどだ。*2

それほど大聖寺の一戦の価値は大きなものだった。

大聖寺の戦いの敗戦で
寝返り始める朝倉被官たち

孤立する朝倉家本拠・一乗谷

朝倉氏当主であった貞景はそののち病を得て陣没し、幼君・勝千代が立つと朝倉氏は降伏した。

貞景は良将であったが粗暴だったので一敗しただけで将士が離れ、酒色を好んだために早世した。ゆえに朝倉家は社稷を失うにまで至ったである。

政親にはそれを自らへの戒めに思ったという。

越前合戦の勝利

能登・越前へ拡張した富樫領
加賀2郡から始まり今や16郡を支配下

この勝利によって2ヵ国半へとその領国は広がった。富樫氏がほんの十数年前に一揆勢に国を追われたことなど、もはや忘れ去られかけていた。

だが朝倉氏との戦さが終わると、政親は気が抜けたかのうように床へ伏せる事が多くなってしまった。

「死ぬと思われた時に生き、生きると思われた時に死ぬのが我が人生だ」

政親はたびたび近習にそうこぼした。

癌に倒れる

親家は病身の政親を気遣って休ませたが、かえって父は息子に話を聞かせようと枕元に呼んだ。

それならばと親家が若い時分の武功話をせがむと政親は必ずそれを拒んで、鈎の陣から退いたことを悔いる話を繰り返し語ったという。

やがて更に体は弱まると「俱利伽羅峠…」と呟いたのを最後に逝去した。かつて受けた恩も恥辱も、決して忘れぬ男であった。

1511年 政親逝去
家督は嫡男・親家に継がれた

親家のこと①(1511年~1527年)につづく

*1:NMIHにせよCK2の教育はConclaveDLC入りの場合、ある程度はコントロールすることができます。特に重要なのが後見人の性格traitと数値で、それに応じてイベントを起こして後継者の性格を決めることが100%でないにせよ可能。ここらへんのイベントは英語版のCK2Wikiの「Education(Conclave)」の記事が大変参考になります。個人的に好きなのは、Sturuggleからの軍事教育へ向かうルートとDutyから管理教育へのルート。特にDutyは、勤勉Trait獲得が容易で尚且つ勤勉は各種上位教育特性獲得にバフがかかるので大好きです!

*2:NMIHでは会戦に勝利したりすると、敵将が寝返ってくることがあります。この寝返りは敵将の主君への好悪感情の度合いや、性格によって決まります。これを利用することで例えばA郡が欲しい場合、会戦に勝利しA郡をもつ領主を寝返らせれば宣戦事由が消失しすぐさま休戦となるため、休戦期間が発生せず更にすぐに違うB郡を目的とした戦争を挑むことが可能。つまり雪崩れ式に敵勢力を壊滅させられます。逆に言えば、性格が悪くて主君と関係が悪い封臣は寝返られてしまう可能性があるので統制に注意。また、重要なのが寝返りしてくるのは自勢力よりタイトルランクが低い敵直臣だけと言う点です。例えば多くのシナリオの足利氏は領地の殆どが王国級タイトル持ちの細川氏の臣下なので、王国級タイトルしかこちらが持っていない場合はどんなに会戦で勝利しても寝返りが発生しにくいのです。

政親のこと①(1488年~1499年)

闔国騒擾し、政親落ち延びること

月の出ぬ夜。加賀国野々市の守護館から、数人の武者が刀だけを下げてひっそりと抜け出そうとしていた。女房衆と子供たちがそれに続く。

1488年の加賀国
富樫氏が守護を務めるが…

「決して声を上げてはならぬ。具足は音が出る、捨て置け。灯りも無用」

壮年の男が密やかに周りの者へと言う。その声は口惜しさからか、怒りからか、あるいは怖れから、わずかに震えている。男の名を富樫介政親といった。

富樫政親
富樫介 加賀守護
勇武の人だが酷薄なところがあった

一行は人目を避け、足早に街道を離れ進む。政親は加賀を出て越中へと落ち延びようとしていた。守護がその領国を逃げ出る…しかも累代にわたり治めた地である。

悔しさに涙を流す近習の一人は言う。

「高尾の山城に籠る策もございます。建武中興の頃より加賀は富樫の御家の地にして…」

「何度も言わすな。やつらに今は抗えぬ」

一行はいよいよ加賀と越中の国境の倶利伽羅峠を眼前にすると、振り返り自らの国を見渡した。

国中で無数の松明の灯りが揺らめき、数で夜星に勝るように見える。人々は大音声で念仏を唱え合っており、その声は遠くこの地にまで聞こえてくるような気さえした。

「まるで国が燃えているようだ」一行の誰かが呟く。いつか再びこの地を再び取り戻すと心の中で誓いながら、政親はまた歩み始めた。

鈎の陣のこと

なぜこのような次第となったか。それを語りきるには墨も紙も足らない。少なくとも、きっかけは時の公方・足利義尚の近江親征である。

この親征は陣が置かれた地の名から「 鈎の陣」と呼ばれた。

鈎の陣
義尚は低下していた将軍の指導力を発揮すべく
この時幕政に反していた六角高頼を討とうした

政親もこの陣に加わり、諸将に先んじようと多くの兵と銭を出した。無論それは加賀の民を苦しめることになる。

民心は富樫から離れ、かねてより加賀の地に根を張る本願寺は窮民や国人と結んで宗徒の軍勢を起こしたのだ。一揆である。

長享の一向一揆
本願寺による加賀公爵級タイトル剥奪戦争
富樫勢1700 VS. 本願寺勢4500の絶望的な戦い

本願寺教団勢力図
京畿のほか加賀・越中にも領地を持つ

一向宗信仰の広がり(黄色)
蓮如による布教により北陸諸国は真宗一色

政親は義尚に帰国を願い出て、陣から去ることになった。幕府軍が近江にくぎ付けにされている今、政親は独力でこれに対処せねばならないからだ。

公儀への忠節で知られた政親にこれ以上に悔しいことはない。

足利義尚
硬骨の青年公方
「陣払いは許すが、援軍には期待しないでくれ」

幕府の力なしに数で勝る一揆勢を押しとどめることは、政親にはできなかった。緒戦こそ兵1700を引き連れ本願寺の小勢を破れはした。

加賀の本願寺勢を破る
少数の封臣軍しか出てこないうちに削っておく
ライフフォーカスも軍事にして少しでも兵力を稼ぐ

しかし京畿の本願寺勢本隊が加賀へ着く頃には、兵を温存すべく越中へ落ち延びることになったのである。

政親加勢を得て、加州平定に向かうこと

政親が越中へ向かったのは何も無策ゆえというわけではない。政親はこの地でとある人物に助けを求めるため会見に臨んだ。

姉小路基綱
飛騨大野 小島城主
歌人で知られる公卿

姉小路基綱は混乱する飛騨を抑えるため同盟を欲しており、政親とは利益を共有していた。基綱との目通しが叶うと、政親は基綱の娘・済子を娶る形での同盟を説得した。

「古くは戦国策に、唇亡びて歯寒しと言います。加賀が本願寺の手に落ちれば、それはいずれ飛騨へと至るでしょう!」

「ううむ…」

これには基綱も言葉がなかった。兵800の加勢を得ることに成功したのである。

同盟と援軍要請に成功

後は時間との戦いであった。政親は今度は倶利伽羅峠を逆に進んで加賀へと軍を返し、一揆方に制圧されていた白山郡を取り戻した。逆に一向宗門徒らは石川郡を我が物にしようと動く。

ただ、数に劣る富樫勢と地の利に劣る一揆勢は互いにそれ以上動くことができなかった。*1

睨み合い
山岳地形を利用して白山郡に籠り
本願寺の損耗を待つ

いずれ一揆勢は城攻めで疲弊する。そこを狙えば勝算は十二分にある。そう政親は考えていた。だがこの膠着は意外な形で終わった。急の知らせが政親のもとに入ったのである。

管領細川政元および
越中守護・畠山政長本願寺領へ侵攻
(赤色が反本願寺勢 緑色が本願寺

「義尚様は援軍は頼るなとおっしゃっていたが…なんとありがたい!」

将軍の要請のためか、あるいは私利のためかは分からないが、本願寺は四方に敵を抱えることになった。この窮状のためか一揆勢は焦り、勝敗を決しようと白山郡の富樫勢へと野戦を挑みかかった。

鳥越の地で両者はぶつかったが、政親は山間の地を生かして良く迎え撃った。

鳥越の戦い
山岳防衛戦・渡河防衛戦・当主在陣ボーナス等バフ全部乗せ
数に劣るも互角以上の戦いに

「仏敵・富樫政親の首を獲れ!」

「この政親に続け! 妙見菩薩の加護は我が方にあるぞ!」

政親は中央を率いて奮戦した。数刻のあいだ鋭鋒突きあう乱戦が続いたが、富樫勢は一揆勢を寸断することに成功した。

敗れた一揆勢の戦死者の数は千弱にも及び、敵将の一人である本願寺蓮乗が自刃。手取川は血に染まることになった。*2

勝利!
占領で戦勝点を稼がれる前に間に合った

名将の指揮官traitも獲得

以後一揆勢の勢いは弱まり、富樫勢は占領されていた諸城を解放していった。敗れた本願寺門徒たちはこれを眺めているほかなく、石川郡と白山郡が政親の元に戻ると本願寺蓮如は政親へ和睦の使者を送ってきた。

本願寺蓮如
権大僧都 本願寺法主
「元よりこたびの一揆には反対であった…」

本願寺から贖金200貫が支払われ、講和と相成ったのである。つい一年前、音を消して去った野々市の守護館へと戻ってくることが出来たのである。

政親はこれに泣いて喜んだという。

本願寺に勝利!

教育Traitも成長
この一連の戦いで政親の将としての器量は高まった

ただ、もちろん本願寺と富樫氏との緊張関係それ自体が終わったわけではなかった。加賀5郡のうち加賀・能美・江沼の3郡は本願寺による支配を受けている。

これを取り戻さねば加賀の安寧はなく、政親の目的はその奪還にあった。

富樫氏(白)と本願寺(えんじ)に
分断された加賀国

そして、もはや本願寺にはこの流れに抗する力はなかった。先の講話より5年後の明応5年(1496年)、政親は再び軍を起こした。目的は加賀平定である。

加賀統一戦争
加賀のde jure領すべてを請求

侵食され弱体化した本願寺
摂津西成と越中西砺波を失陥している

本願寺がこの戦いに用いることができた兵は3000に満たなかった。足軽が殆どの本願寺勢は、侍衆主体の富樫・姉小路勢に再び蹴散らされた。*3

加州の各寺の住持として本願寺勢を率いた蓮如の息子たちは、捕らえられる者もいれば、法主に逆らい守護方へ転ぶ者さえいた。

捕縛された蓮如四男・蓮誓

寝返りをした蓮如三男・蓮綱

いずれにせよ、本願寺の支配権は加賀から一掃され。この戦いに敗れた加賀の各寺は守護たる政親に従い、富樫氏の加賀支配が復権することになったのである。

加賀国の統一

加賀統一時の政親
軍略家として大成する*4

政親のこと②(1499年〜1511年)につづく

*1:今回選んだ戦略は、本願寺軍に全土占領される前に白山郡に篭ろう…という物です。CK2の戦争は占領か会戦で戦勝点を稼ぎ、100点になると勝利あるいは敗北するというシステムです。富樫領のうち石川郡を占領されるだけでは100点には達さないので、白山を守り切ればいずれ白紙和平には最低でも持っていける…という算段です。同盟相手に姉小路氏を選んだのは、この戦略的に大兵力よりもすぐさま一緒に白山に入ってくれる近場の勢力の方が適していると思ったからです。

*2:ここで勝てたのは正直ラッキーでした! 兵種構成が全勢力ほぼ同じなNMIHの戦争は士気ボーナスを稼ぐことが特に大事なので、当主に軍勢を率いさせてボーナスを得ることは常に有用です。ですから基本的に勢力が育ち大兵力を運用できるようになるまではライフフォーカスは軍事を選ぶのが個人的好み。また、NMIHは直轄領がバニラより多くできるバランスなので、直轄領の動員兵力に絡む軍事ステータスの重要性はバニラ以上に高いです。同じ理由で管理フォーカスも強いと思います。

*3:本願寺一向宗限定の寺社領建築物がある関係で、足軽つまり軽歩兵を通常の勢力よりも多く動員することができます。逆に言えば兵力が同数ならば兵質差で大体勝てる印象。

*4:軍事教育の利点は、教育特性が非常に成長させやすい点です。こまめに戦場に出したり軍事フォーカスを選んでいれば容易にTier4の軍事特性にすることができるのでおすすめ。

加州富樫氏累代のこと

CK2 NMIH
1488年 加賀一向一揆シナリオ

はじめに

Crusader Kings 2(Paradox Interactive社)は、中世ヨーロッパの貴族の政治的生活を題材としたシミュレーションゲームです。他のパラド社作品、例えばHOIやEUシリーズに比べRPGとしての側面が強いゲームで、プレイヤーは当時の貴種の一門として一族の繁栄を目指していきます。

本記事は当作の大型MODである Nova Monumenta Iaponiae Historica(以下NMIH)を導入したプレイレポートになります。NMIHは1180年~1591年(2022年9月時点)までの中世日本をCK2のシステム上で再現しており、三英傑など有名どころの戦国武将はもちろん歴史的にはマイナーな「地元のお殿様」的国人層でもプレイすることができる傑作MODです。

※なお今やCK2本体はSteam上で無料で手に入れられますので、仏教徒プレイを可能にするDLC「Rajas of India」さえ購入すれば素晴らしいNMIHのゲーム体験を堪能することができます。お得‼

今回のプレイでは1488年の加賀国主・富樫氏を選択しました。史実ではこの年に一向一揆に国を奪われて戦国の世を生き延びることができませんでしたが、このプレイではどうでしょうか。

目次

プレイ環境

DLC :すべて
▪MOD :NMIH(β 20220821更新版)+日本語化MOD
▪特殊ルール:NPCによる養子ディシジョンの禁止、プレイ開始時の後継者の自動生成ナシ
▪プレイ対象:富樫氏
▪開始年月日:1488年 加賀一向一揆シナリオ
▪難易度 :Very Hard/Ironman mode

富樫氏について

富樫氏の八曜紋

富樫氏は加賀国の有力な武家であり、藤原北家魚名流の藤原利仁の次男・徐用が現在の石川県金沢市にあった富樫郷を与えられたことから始まる家とされています。

古くは源平合戦の頃から加賀の有力な武士として記述が残り、室町時代に至ると討幕時の功績をもって加賀守護職を任されて、これを継承していった代々の当主は富樫介(加賀介)を名乗りました。

室町時代加賀国は御料所や五山の寺領などが多く、守護権力が不安定でした。富樫氏による守護職継承も中央政界に左右されて何度か途切れており、一族内の内訌も起きたことが知られています。本AAR最初の主人公である富樫政親も大伯父や弟と守護職を争いました。

富樫家と本願寺の最初の関係は、こうした内訌をきっかけとしています。当初本願寺は富樫氏の家督争いにおいて政親の支援者でした。しかし結局は弾圧・反抗関係となり、最終的には1488年に長享一揆へ至ります。史実ではこれを機に本願寺(というより加賀一向一揆)は政親を攻め殺し、加賀の一国支配を確立しました。