近江守、右京兆と謀って幼君を逐うこと
加賀国・宮腰の湊は今日も賑わっている。
ここは北陸道と塩硝街道の結節点であり、古くから地域で重要な湊であった。しかし守護に復権した富樫氏が街道や宿場を整備すると、更に活気付いて諸国の産物で溢れるようになっていた。
野々市の守護館から程近いこの地に、親家はしばしば訪れた。京の風聞を聞くためである。加賀に在国するようになって久しい親家よりも、北陸道を行き来する商人たちは耳聡い。
「六角近江守殿が公方様に弓を引いたというが、誠か」
「誠にございます…それだけではなく右京兆様もご同心する大騒ぎで…」
「なに細川殿までもが!」
御用商人の一人が語るには、京で大きな政乱があったという。
永正8年(1511年)のこと、まだ元服前の将軍・足利小四郎が近江守護の六角近江守と管領・細川政元によって廃されたのだ。
鈎の陣のことで六角氏が今は亡き義尚公を恨んでいたのはよく知られていた。
管領・細川政元は新将軍に小四郎の伯父であった足利義貞を擁立した。そして義貞に代わって幕政を取り仕切った。
六角近江守以上にこの政変で利を得たのは、結局は細川であった。
故義尚公の覚えめでたかった富樫氏にとっては許しがたいことだが、加賀在国の身ではどうすることもできなかった。
「また、これはご当国のことなのですが、近頃兵糧米の買い占めの動きがございまして」
そう商人が続けると親家はそれを遮った。
「いや、みなまで言わなくともよい。朝倉の者共のことであれば掴んでおる」
同じ頃、富樫氏領国でも陰謀の動きがあったのである。
先代・政親に降伏したの朝倉氏の残党が、越前を再び手中に戻さんとつけ狙っていた。加えて一向宗門徒が加賀でも越前でも騒がしく、いつまた一揆を起こすかわからなかった。
首謀者を捕縛すれば一時の安寧を得ることはできる。しかし朝倉氏の残党らが越前への請求権を持ち続ける以上いずれ挙兵するだろうし、一方的に処断すれば今は親家に従う者ら他家に内応するかもしれない。
親家の治世はその始めより内憂を抱えていたのである。
親家、家中粛清のこと
こういった事態を解決する策を親家に授けたのは、正室の妙哲であった。
「政親公と同じことをなされればよいのです」
「父上と同じ…とは?」
妙哲の語った策はこうだ。この時、富樫氏の家法によれば、当主と異なる宗旨の者の領地を召し上がることができた。元を言えばこれは先代政親による一向一揆・両御山懲罰の家法だった。
翻って言えば、一向宗に帰依してしまえば親家はそれ以外の宗派に与している朝倉氏残党を排除できる。
無論、一向宗への帰依は危険も伴う。禅宗にせよなんにせよ、大多数である殆どの仏教徒との関係は悪化するだろう。他にも様々な不都合も考えられた。*2
「恐ろしい女だな!しかしおもしろい」
「ふふふ。あとは殿にお覚悟があるかどうか」
「無論ある。山科の弟君にも伝えておいてくれ。彼との盟もより固くなるだろう」
そこから親家の行動は早かった。
石川郡の一郷を本願寺に寄進して新たに寺を建立させ、富樫氏の新たな菩提寺としたのだ。また加賀国中の本願寺派の諸寺を復興させて、先代・政親の一向宗禁制の裁定を翻した。
加賀国中はこうした親家の振る舞いを看過した。彼の行動は全て法に拠っていたし、そもそも加賀の凡下民草は一向宗門徒がほとんどであったからだ。
「これで加賀は一向宗の国だ…父上が見れば卒倒するだろうな」
富樫領国の国人らは、こうした親家の動きに従うもの少ないながらもいた。越前国では堀江景規、美濃国では稲葉通貞、能登では温井続永である。
彼らはかつて朝倉氏の配下でありながら、親家によってそれぞれ右筆と軍奉行に取り立てられた者であった。
しかしそれ以外、つまり朝倉氏諸家らはこれに猛反発を見せた。目付の妙哲は彼らの一部を野々市の守護館へと集めた上で、謀反の疑いありとして直ちに捕縛した。歌会と称した場に鎧武者を忍ばせて不意を打ったと言う。
越前大野郡の朝倉維景を筆頭に、4名が所領没収の上追放となった。
それが済むと、親家は残る者らにも宗旨違いの故で所領召し上げを通告する。これに対して朝倉本宗家の当主だった定景は越前と能登で兵を挙げた。
永正14年(1517年)のことである。
この挙兵は全く功を奏しなかった。親家の軍勢が6000を超えたのに対し、朝倉方の兵はわずか2000余りであった。しかも京からは、山科本願寺の僧兵らが援軍として越前に入っている。
一年も経たず敗れた朝倉氏残党は、それに連なる多くの者らと共に越前一乗谷城で自刃し果てることになった。
富樫家中の粛清はこれで終わり、親家の支配権が確立された。
朝倉氏の遺領のうち越前の足羽や敦賀といった要地が親家の直轄領に組み入れられた。また、富樫方として奮戦した堀江景規などに新領が与えられたほか富樫一門衆が各地に配されたのである。
親家はこれ以降何かあれば必ず妙哲を頼るようになり、妙哲は常にその期待に応えて良き助言者となった。
父同士が相争った加賀の地で、子である二人の愛は確かなものになっていったという。
将軍家御門葉、加賀へ下り公方と称されること
大永6年(1526年)の冬のことだ。この年の加賀の国は寒さ厳しく、その日も十間も歩けば肩が雪で白く染まるほどの天候であった。
そんな中、僧形の男が下男の一人だけ供に野々市の守護館の前までやってきた。身なりはみすぼらしいが、落ち窪んだ眼窩の奥の瞳に貴顕の風情がある。怪しむ番兵は追い払おうと声をかけた。
「ここは加賀守護、富樫様の御居館である。御坊がいずこの人か知らぬが庇は貸せぬぞ」
すると富樫家右筆の堀江景規が、館から慌てて飛び出してきた。
「待て待て待て! この方は殿がお招きした御仁! 通しなさい!」
「…はぁ。この法師がですか」
それでもじろじろと法師を眺めつづける番兵を、冬というのに大粒の汗をかきながら景規は押し退けた。「さささ、外は寒うございますから」と僧形の男を館の中に招き入れる。
「これはとんだ粗相をいたしました。あの番兵めは罰しますゆえ…」
「よいよい。今の余はただの法体よ。むしろあの者、良い働きぶりではないか」
法師は静かに笑みを浮かべる。景規は思わず額の汗を拭った。
「勿体ないお言葉にございます…」
「さて、富樫介は?」
「こちらでございます。殿も義忠様をお待ちに」
この僧形の男の名を、足利義忠といった。
将軍家御一門、今出川殿こと足利義視の次子。紛れもない貴人である。本来であれば上京の実相院にて出家の身だが、その義忠がなぜ加賀野々市館にいるのか。
その訳は京の混乱にあった。
かつて幼公方を放逐し、以後政権を担ったのが細川政元であったことは既に書いた。その政元も、大永4年(1524年)に逝去した。彼には実子がなかったから、細川家中は管領職後継を巡り真っ二つに割れた。
細川一門の長老格であった細川義春が結局は管領となったが、中国諸国は細川元有についたのだ。
この細川氏の内紛は、時の将軍・義貞が細川義春の手のものによって近江朽木谷に幽閉されてしまう事態にまで発展する。公儀政道は乱れ、天下擾乱は甚だしい。
そういうわけで京から逃れた足利義忠を、親家は加賀へ迎えたのである。義忠は居所とした波佐谷松岡寺から「波佐谷御所」とか、単に「加賀公方」などと称された。
親家が天下京畿に野心があったかといえば、そうではない。確かに彼は両細川が恣にする今の幕政との対立姿勢を深めたが、その狙いは北陸諸国にこそあった。
北陸で最も優勢な大大名になることができれば、両細川と伍する格を得ることができる。そのためには能登を抑えることは当然として、越中も取らねばならない。となれば越中守護畠山氏、ひいては幕軍と戦う必要がある。
つまり先の波佐谷御所の擁立は、この戦いの大義名分づくりの意味合いがあった。*4
合戦を前にして、親家は重臣らを富樫館に集めて語った。
「此度の戦いで、私は父の成せなかった事を成す」
京から見れば、富樫は今や逆徒である。負ければこの地には帰ってこれないかもしれない。しかし、その覚悟が親家の目には輝かせていた。
「父は亡き義尚公に忠節を誓ったが、それを果たしきれぬまま世を去った。私は代わって義忠様の御剣となり、細川から諸国を切り取って見せよう」
大永7年(1527年)、親家は分国中の兵10000を集めた。新たな時代が訪れようとしていた。
*1:NMIHの交易所はとにかく重要で、直轄領は交易路がたくさん通っていて尚且つ交易所を建てられる場所を優先して領有すべきだと思います。さらに交易路は当該の郡内の領地に収入面や兵力面でバフを与えてくれます。バニラでは基本的にスロット数で直轄領を決めると思いますが、NMIHでは「スロット数的には大したことないが交易上の要地なので強い領地」が存在するので注意すべきです。
*2:具体的にゲーム仕様上の事を言うと一向宗と仏教徒は異教関係になるので、他キャラとの関係値にデバフがついたり、外交アクションにマイナス補正が入ったりする。また政親が使ったような、一地方を丸々切り取れる強力な「服属戦争」は同一宗教の相手にしか使用できないので使えなくなります。何より、もし富樫氏のように「異教徒の領地は没収できる」法律を採用している家の傘下に入ってしまったら大変なことに…。
*3:領地開発は首都を優先すべきですが、更に言えば首都に複数の城郭タイプ男爵領を立て全て直轄化するのが私は好きです。首都の城郭は、首都以外の城郭に比べ数倍の兵力などをもたらしてくれます。この戦略はnlf36さんのCK2AAR「リューンの赤旗のもとに」で知ってからずっと実践しています。バニラでは開発を行わないタイプのプレイヤーの方でも、開発速度が早いNMIHでは首都に城郭を立ててもいいかもしれません。
*4:ゲーム的に言えば将軍家への請求権持ちを手にしていると、その人物を将軍にする戦争を起こすことができます(今回はしませんでしたが)。この戦争に勝利すると、新将軍の臣下になることを選ぶこともできます。
*5:NMIHにはいくつかの独自の宣戦事由があります。侵攻はその一つで、徳を消費して郡を対象にした戦争を起こすことが可能。またその上位互換として、公爵級を対象にする宣戦事由もあります。これらの宣戦事由は法律技術によってアンロックされていくので、NMIHでは法律技術は多くのプレイヤーにとって優先順位が高くなるでしょう。