ゲームのはなし諸次第

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親家のこと②(1527年~1547年)

親家、波佐谷公方を奉じて兵を興すこと

幕府方は親家の動きを初め軽視していた。細川元有を主将とする兵3000程度を先触れに北陸へ送っただけだった。

これは富樫勢によって塩津の地で破られる。

塩津の戦い
畿内からの玄関口・木ノ芽峠を越えられる前に
突出してきた初期兵力を削っておく

富樫の勢兵力は京方の予測を大きく上回っており、それを可能にしたのは一向宗を用いた家中統制による、その広大な直轄領であった。

この戦いには波佐谷公方を支持する河内の畠山義英や西国の大内義興が参戦の援軍が加わっており、富樫勢は10000を超えていた。

大内義興
左衛門督 西国の大大名
その子弘親と親家娘が婚姻し同盟を結んだ

畠山次郎義英
義就流畠山当主
親家の義弟

こうした事態に、京方はようやく重い腰を上げて18000を差し向けた。親家は幕府軍越中まで誘い込むと、越中国の千久理の地で両軍は向かい合った。

京方を率いるのは、塩津の地で惨敗を味わったばかりの細川元有。また与力に越中守護・畠山尚順がついていた。

細川元有
右京大夫 山陽の大大名
老練な名将として知られた

畠山尚順
相模守 政長流畠山家当主
畠山義英とは父の代よりの宿敵

「元有殿、早く攻め上がりましょう」

尚順の鼻息は荒い。富樫勢が狙うのは尚順の領する越中であるから気が気ではないのだ。それに対岸の富樫勢には、かねてからの敵・畠山義英の姿が見えた。

「いやいや待たれよ相州殿、当地は峻険。しかも上庄川を挟んでおる。こちらから攻めればそれこそ富樫介の思惑にはまる」

「しかし、このまま冬が来れば京に戻ること能いませんぞ。富樫介はこの地の者だが、我らはそうもいかない。なに所詮は連中は寄せ集め。少しばかり突けば崩れる」

「うむ…」

確かに元有にも焦りがあった。長く京を離れ続ければ、細川氏の主導権は管領・細川義春に傾くかもしれない。尚順の戦局観それ自体は古強者の元有には馬鹿馬鹿しかったが、この戦さを早く終わらせなくてはならないのは事実だった。

結局元有は上庄川を渡河し富樫勢へと襲い掛かった。

千久里の戦い
京方18000 vs. 富樫勢22000
高地防衛&河川防衛でバフを稼ぐ

この判断が過ちであったのはすぐに分かった。

親家は京方18000の攻勢を見事に耐えきる。何度かの渡河のたびに京方は兵を減らし、やがて中央が攻めつかれて敗走した。

京方中央が瓦解する
今回は中央に兵力を集めておいた

氷見の地は落ちて、京方は諦めて兵を引き上げていった。この大きな勝利は親家の権勢を大いに高め、その武辺は五畿七道に知られたという。

この戦いで親家は将才を発揮した
直接的な指揮官(中央を率いると士気ボーナス)がつく
翼将と並び個人的には非常に使いやすい指揮官特性

富樫勢の中には元有の粗略を謗る者もいたが、親家はむしろ元有の勇を讃えた。

「元有殿ほどの名人でも誤ることがあるのが、武略の恐ろしさなのだ。上庄川を渡っていたのは私かもしれぬ」

千久里の戦いののち、越中氷見郡は陥落。これによって北陸で京方の勢力は減じ、さらに享禄2年(1529年)にも親家は兵を集めて越中射水郡を落とした。

その折、親家は京に上洛も果たしたが上京を焼くとすぐに退いたという。

続く射水侵攻でも勝利
日本国内で最大兵力の足利幕府に連勝!

京都攻略

親家の勢いはもはや留まることがなかった。同5年(1532年)には斯波氏配下となっていた能登畠山を攻撃した。

能登制圧

右筆の堀江景規はこの攻撃を正当化するため、「家祖・富樫高家公が等持院殿(つまり足利尊氏)に、中先代の折に能登国を恩賞に与えられていた」旨を記した書簡を加賀の古刹で”発見”したが、こうした強弁を最早誰も笑い飛ばすことはできなくなっていた。

足利幕府と戦争しつつ
能登二郡の請求権を捏造していた
侵攻宣戦事由は最初は1郡ずつしか獲れないので
バニラ的な請求権捏造も並行して使うと時々役立つ

これによって親家は加賀、越前、能登そして越中西北部の3ヵ国半を領国とした。世の人は彼を細川や畠山に伍する大大名と呼ぶようになったのである。

父・政親以来の悲願が成就したことを、親家は何よりの誇りに思った。

富樫家の拡大
加賀・越前・能登に加え越中2郡を支配下

晴れて北陸の大大名に
王国級タイトルを創設した

この頃の富樫親家
朝廷にも献金を欠かさず従四位下にまで上った
拡張に沿って位階と法改革ボーナスで直轄領を増やす

親家、再び細川と陣を構え犀川を渡ること

「妙哲よ、しばし館をあけることになる」

「またですか!当分戦はないと思っておりましたが」

「ああ、京で事が起きてな。鷹に興ずる間もない」

親家は少ない余暇で鷹狩りを嗜んだ

1535年(天文4年)、富樫親家は忙しく甲冑に身を包んで野々市の守護館を出た。

将軍・足利義貞が逝去したのだ。両細川が擁立したのは義貞の弟、藤義であった。

足利藤義
教養ある文人将軍

しかしこれは無論、近年講話したばかりの波佐谷公方擁す親家に越中国侵攻の口実を与えることになったのだ。

越中国征服戦争
北陸の大大名となったので
北陸のde jure公爵領を丸ごと宣戦事由にできる
義貞の死で停戦期間が早々に終わったのはラッキー

京方は再び北陸へと兵を送った。この頃になると両細川の当主は交代しており、元有の子・元常が京方の総大将を務めていた。親家は兵を既に集めており、両者は加賀大野で犀川を挟んで対陣した。

京方18000と富樫方18000。天は不吉に曇っていた。「なにやら此度の戦さには、嫌な予感がする…」親家は身震いをしていた。

大野の戦い
ほぼ同数の戦いであった
操作ミスで誤って渡河攻撃になってしまう

親家の悪い予感があたる。与力の畠山勢が左翼から突出し渡河し、撃退されたのだ。このままでは敵による包囲が完成する。

親家は急ぎ自らが率いる中央に兵を集中させると、元常の本陣を攻めた。この攻勢が凌がれれば総崩れである。親家自身も白刃を振るい、京方の雑兵たちを掻き分けていった。

「かかれかかれ! 諸勢、遅れれば武士の名折れぞ!」

そう大音声を発し馬を走らせる親家に、旗本衆が主君を死なせまいと続き、更にそれに置いていかれまいと士卒連中が続く。

中央突破
直接的な指揮官Traitを生かし中央に戦力集中
中央のとんでもないダメージに注目!
左翼が崩れていたので一か八かだった…

対する元常は千久里での父の汚名を雪ごうと、采を振るいつづけた。京方左翼が本陣の救援に向かう。

しかしそれが間に合う前に親家は本陣になだれ込んだ。元常を始めに歴々の将が討たれ、京方は総崩れとなった。ほとんど奇跡といってよい勝利であった。

大戦果!
京方8000近くが戦死
総大将の細川元常を打ち取る

元常嫡男の頼尊が大将を引き継いだが、もはや親家に抗することはできなかった。いくつかの散発的な戦いが続いたのちに越中国から京方は一掃されたのである。

親家のもと拡大する富樫家
能登に続き越中を制圧

この成果に満足した親家はすぐに加賀へ戻った。

右筆の堀江らと新たに従属した越中国人の処遇について協議せねばならない。それに越中国守護職補任について波佐谷公方と相談する必要もある。

しかし富樫館で親家を迎えたのは、堀江でも波佐谷でもなく、目を赤く腫らした妻・妙哲であった。

嫌な予感は当たった。

「落ち着いてお聞きください、あなた様。平六が…」

継嗣早逝し、富樫家中動揺すること

平六は、親家にとって唯一の男子である。妙哲が40を超えて身体に鞭打ち産んだ、初めての男子だったのだ。

ただ、元より体が弱い子であった。

嫡男・平六の死

呆然とする親家だったが、そうもしていられない。富樫館に家老や奉行らがを集め「継嗣をどうすべきか」と問うと、口火を切ったのは筆頭家老である右筆・堀江景規。

「弟君の四郎殿がお継ぎになるべきかと」

富樫四郎家友
能登国末吉城主 親家の庶弟
心優しい正義の人で家中で慕われる

家中の圧倒的支持*1

親家には3人の弟がいたが、この時存命であったのは庶弟の家友ただ一人であった。いわば富樫一門衆の筆頭である。

ほかに富樫庶流の出で家宰を務める大野城主・豊家なども同じく家友を推していた。

富樫本家家系図

「しかし、家友は真宗を信仰していないではないか」

親家がそう言うと重臣らは押し黙った。富樫の家法は、当主と宗旨を違う者をいつでも改易の対象とする。二代続けて真宗の当主が続けばどうなるか、非真宗門徒家臣らは不安がっていた。

堀江景規も富樫豊家も非門徒である。ゆえに非門徒の家友を推したとみられた。

改宗させようにも「揺るぎない信者」補正が…

それならばと、親家は早世していた同母弟の子、橘五と太郎と源四郎の3人を自らの養子とすると語った。中でも長子の橘五を継嗣にすべしと説いたが、これは家中で十分な同意を得ることができなかった。

真宗門徒の甥を養子を取る

しかし集まらない支持…
成人していない男子は投票されづらい
土地を与えるとマシになるが幼君は簒奪される恐れもあり避けたい

「皆は、私が間違っていたと申すのか」

重臣らは目を伏せる。親家は唖然とするほかなかった。真宗と結んだ事が領国安定と富樫の家の強勢に資したはずだ。

父の遺志を曲げてでも成した功績である、そういう自負が親家にはあった。父は古い男だったからそれが思い浮かんでも成せなかったのだ、とさえ思っていた。

そんな自分を否定されたように親家は感じた。

「しばし一人にせよ」

親家は諸将を下がらせる。そちらがそうなのであれば、こちらにも考えがある。

山新介、義父と共に諸将を同心せしむること

天文15年(1546年)の京都、真宗本山・山科本願寺。その堂宇の奥の一角で親家は真如と対座していた。かつて二人を結びつけた義母・姉小路宗如の葬儀以来、久方の対面である。

「して、何用ですかな?義兄上」

真如
本願寺九世法主
親家にとって義弟にして長年の同盟相手
この頃はまだ存命だった

「甥御の与三郎に娘の椿を娶らせたく」

「顕一ですか。構いませぬが……」

言葉を濁らせながら真如は続ける。

「あれを法嗣にすることはありませぬぞ。次の法主は兄の一承か一考にと考えております」

「真如上人とは折り合いが悪いと聞いたのは、間違いではありませんでしたか」

「あれには手を焼いて仕方がございません。弓馬に執心で、経文を読みもしない。天下国家を論じるばかりで、宗務は疎か。育て方が悪かったとしか」

本願寺顕一
本願寺法主・真如の三男で義理の甥
何故か本願寺家は畿内僧侶文化を捨てており
法名ではなく諱を名乗っている

「それはそれは…。ただ、もし武家に生まれていれば、良い大将になったでしょうな。弓馬好みは武功を助けたでしょうし、大志を語る言葉が無ければ兵卒も忠心を持たぬものです」

驚きに目を丸くする真如。親家はそのまま続けた。

「顕一を、我が養嗣子とさせていただきたい」

「…なんと」

親家の考えはこうだった。富樫本家と本願寺法主家の縁は今や濃い。その上で甥で娘婿となれば顕一を養嗣子とするだけの正統性は、薄くとも無くはない。

「わかりました。元より義絶するつもりだった者です。富樫の御家を継ぐというのであれば、あれの不行跡も少しは改まるというものでしょう」

「ありがたい」

養子に同意*2
「御父上、よろしくおねがい申し上げます」

家一と富樫家の血縁関係

さて京にいた頃の顕一は随分な瀟酒で、異風の出で立ちを好み、舶来の猩猩緋の羅紗に朱鞘の長脇差を差して雑賀・根来の若輩を伴に連れ歩き「傾奇者」と専ら評判であった。

しかし加賀へと下り野々市館へやってきた顕一は、折り目正しい直垂に侍烏帽子で金銀拵えの太刀を差した立派な武者ぶりであったので、「器量人と見た殿の目は正しかった」と近習らは噂したという。

さっそく親家は顕一に偏諱を授け「家一」と名乗らせると、自らの養嗣子とした。*3

家中の家友派・非門徒派への、明らかな対決姿勢である。もちろん家一への家中の支持は初め広がらなかった。

異文化で非嫡出子かつ養子である家一を嫌う者は多い

親家は自らの体がすでに朽ちようとしていることを感じていた。焦りがある。このままでは家友が家を継ぐ。あれも決して悪い男ではないが…。

恐らくそう長くない

「義父上、某に考えがあります」

「申してみよ」

親家は痛む体をおして、昼夜問わず家一と諸将説得の方策を練った。親家は家一の語った策を上策とし、実行に移すことにした。

「なるほど存外、真如上人の賢才を最もよく継いだのはそなたかもしれぬな」

「お戯れはおやめくだされ…」

まず加賀尾山城を家一の居城とした上で能登一国を与えた。能登を与えたのは、家友本人を家一の与力陪臣の身とすることで継承に意見できなくするためだ。

同時に朝廷に働きかけて自らは左京大夫の任官を受け、家一には富樫氏嫡流の家職・富樫介を称させる。*4

富樫家一
富樫介 尾山城主および能登郡代
「位階を持っているボーナス+20」を獲得
更に領地持ちなら地元文化への変化も狙える

更に諸将を金子でもって「説得」。加えて家友派の頭目の一人と目される庶流の富樫豊家を、家臣の妻を手籠めにした乱行狼藉で蟄居処分とした。

賄賂で親家への忠誠度を高めて
「好きな領主の判断は信用できる+60」ボーナスを狙う

またもや妙哲の名捕縛
所領は没収し
真宗門徒の嫡男・資家に与えた*5

すると、すぐさま家友派は割れた。元より家中の大多数は真宗門徒である。こうして家中は家一継承でまとまる形となったのである。

後継者投票で過半数獲得
家友を暗殺すればもちろん話は早いが
忠実でよく尽くしてくれたので気が引けたし
親家の死までに間に合うか怪しかった

この顛末を市中の口さがない者らは悪し様に噂した。

「累代の菩提寺を替え、血も替えたとなれば、富樫の御家は本願寺に乗っ取られたようなもの。妻や娘婿に唆され、富樫左京は亡父の遺志を二度も曲げたのだ」

しかし、そうした風聞を耳にしても親家は少しも動じることはなかった。親家が鬼籍に入ったのは、そのすぐ後のことである。父を超えようとし、父を事実超えた男は満足して死んだ。

【家一のこと①(1547年〜1560年)につづく】

*1:男系合議制単独相続は、NMIHオリジナルの継承法。当主と直臣と評議会が投票者となり、最多投票の男系男子が単独相続します。投票者は候補者との関係や性格など、さまざまなファクターに応じて投票先を選びます。当主は後継者指名で、任意の候補者にボーナスを与えることはできますが確定させることできません。

*2:養子システムはNMIH独自のもので、実子の後継者がいない場合一族の男子や娘婿を養子にすることができます。他にも様々な要素でできたりできなかったりしますが、きちんと把握はできていません…。また同様の条件下で実子を他家の養子に出すことができます。この養子押し込みは様々な戦略上のアドバンテージに結びつきますが…これまたあまり使ったことがなく詳細はよくわかっていません。

*3:偏諱を与えるディシジョンは、威信と引き換えに家臣の関係値を大幅にあげます。その値なんと+50! 正直ゲームバランスを壊しかねないほど強力なので基本縛っているのですが、今回はロールプレイ的に与えた方がそれっぽいという理由で与えました。なお家臣の立場で偏諱を賜ることもできます。

*4:官位システムについて補足。NMIHには位階と官職を得るディシジョンが存在します。位階は直轄領規模を増加させ、官職は様々なステータスボーナスを与えます。官位はキャラクターの所持タイトル数・ランクや年代に応じてアンロックされていき、上位の官位は非常に強力。また史実の家職も再現されており大変素晴らしいシステムです! この富樫介もそうした家職の一つで、公爵級タイトル持ちかつ富樫氏だけが獲得可能です。

*5:豊家捕縛後一領だけ残した状態で資家にタイトルを与えておき、その後最後の一領も剥がして資家に与えました。蟄居&家督を譲らせた…というロールプレイで、ゲーム的な意味はそれほどありませんが、私はよほどのことがない限り譜代や一門の処分はこんな感じでやっています。