姉小路邸の密約のこと
明応8年(1499年)のこと、政親は久方ぶりに京へと上っていた。表向きの上では将軍義尚、そして義父・姉小路基綱への挨拶である。
京の西大路の姉小路邸にたどり着くと、仕丁の少年に客間へと通される。主人である基綱がそこで待っていた。
「富樫介殿!」
「御義父殿、お元気な様子」
簡単な挨拶を終えると、京での噂話に花が咲く。基綱は歌人として高名で歌会には度々加わるから事情には詳しい。「ところでどうか、歌は少しは上達されたか」「いえ、某には歌会よりいくさ場の方が似合う様子でして…」「ほほほ」。
そう言葉を交わしていると、ふと加賀の国のことに話が及んだ。
「聞けば、加賀はまだ騒がしいとか」
「いやはや…埒があきませぬ」
政親の顔が険しくなる。確かに加賀の騒乱はいまだ収まっていない。つい昨年加賀郡で再び一向一揆が起きている。
「門徒らの気勢は衰えぬわけだ」
「それに今は私に服しているとはいえ、降伏した加賀の住持らもいつ反乱を起こすか信用が置けず…」
客間に一人の尼が通されてきたのは丁度その時であった。かの人こそ、二人が今か今かと待っていた人物だった。
姉小路宗如。基綱の実妹、政親正室・済子の叔母。そして、かの本願寺蓮如の正室である。
「お久しゅうございます、基綱兄様。そしてお初にお目にかかります富樫介殿」
政親の顔が自然と引き締まった。基綱は仕丁の少年に合図を送り、戸を固く締めさせた。
「うむ久しいな…それでは早速だが始めるとしよう」
富樫と本願寺。なぜかつての敵方同士が対面しているのか。
彼らにはとある疑いが持たれていた。
他の成人していた兄弟らへの暗殺疑惑だ。京で蓮如の傍に仕えていた六男・蓮淳や、両御山体制に不満を持ったとみられる弟の加賀本泉寺住持・七男の蓮吾が相次いで殺されていた。
実際の政務は、真如の生母・姉小路宗如が摂政としてあたることになった。本山を率いる宗如にとって、両御山は脅威である。いつその刺客の刃が幼い我が子に迫るとも知らない。しかし排除しようにも加賀に直接働きかける事はできない。
そこで白羽の矢が立ったのが、同じく加賀一向宗に手を焼いていた政親というわけであった。
「盟を結びましょう。政親殿には両御山の懲罰をお願いしたく思います。本願寺一門といえど、遠慮はご無用でございます。本山はそれに関知いたしません」
政親はうなずく。基綱が懐から起請文を取り出す。政親と宗如は互いに記名し、それを焼いた灰を酒に溶かして飲み合った。
「この政親に万事お任せくだされ。両御山退治、しかと承りました」
こうして本願寺本山と富樫守護家との間に、姻戚関係と同盟とが結ばれた。我が子を守るためにはどんなこともする母の決断だった。
ここから長享の一揆の頃には考えられなかった、本願寺と富樫氏の新しい関係が始まっていく。
加賀へ戻った政親は、さっそく暗殺の咎で蓮誓を捕縛した。そのうえで残る蓮鋼らが抑える加賀郡と能美郡を召し上げるため軍勢を送った。もちろん両御山に従う門徒らはこの動きに反発し、挙兵を図った。
しかし本山の支援を受けられない情勢では衆寡敵せず、あっけなく守護方によって鎮圧された。
両御山と称された蓮綱と蓮誓兄弟は、あっけなく共に領地を失い落ち延びていった。
政親、越前へ兵を進めること
加賀を鎮めた政親には次なる大望があった。それは北陸諸国の一統である。北陸は加賀のほか、越後・越中・能登・越前の5国からなる。
この地を富樫氏のもとに置くことができれば、細川氏や斯波氏など幕府の重鎮らと肩を並べることができる。
これは何も夢物語ではなかった。応仁の乱以降幕政は荒れ、各国の守護同士が相争い、国人らが守護を追い落とす世が来ている。世に言う「戦国」の世だ。
これを討つ。
朝倉氏は確かに強盛ではあるが、政親はいまや加賀国の全てを自らの直轄領としていた。長享の一揆の頃から比べて3倍以上、6000の兵を集めることができる。
また、外交に訴えれば更なる味方を得ることもできるだろう。政親は娘を河内大和の総州畠山氏へと娶らせることでその援軍を得ることにした。彼らの助力があれば、互角以上の戦いになる。
永正3年(1506年)、政親は加賀より兵6000を率いて越前へと出兵した。
緒戦は越前大聖寺において戦われた。畠山勢が着到する前の合戦であったためほぼ同数であり、両軍とも総大将たる政親と貞景が率いた。
政親は中央と右翼を薄くし、左翼を厚くとる陣形を敷いた。自身が率いる中央が耐え抜くうちに数で勝る左翼で敵勢を抜く策だ。
富樫勢6000も朝倉勢5700も共によく戦ったが、武運は政親に味方する。
政親の嫡男・九郎丸が元服し、親家と名乗ったのはこの頃の事である。朝倉氏との大聖寺の戦いは、親家の初陣となった。
親家は体格逞しく弓馬を好み、武門の誉れ高い富樫の名に恥じぬ武者ぶりの良い青年に育った。*1
政親が余勢をかって朝倉氏の本拠一乗谷へ雪崩こむと、多くの敵将が降ってきた。その中には朝倉氏庶流の景明など一門衆の姿さえ見られたほどだ。*2
それほど大聖寺の一戦の価値は大きなものだった。
朝倉氏当主であった貞景はそののち病を得て陣没し、幼君・勝千代が立つと朝倉氏は降伏した。
貞景は良将であったが粗暴だったので一敗しただけで将士が離れ、酒色を好んだために早世した。ゆえに朝倉家は社稷を失うにまで至ったである。
政親にはそれを自らへの戒めに思ったという。
この勝利によって2ヵ国半へとその領国は広がった。富樫氏がほんの十数年前に一揆勢に国を追われたことなど、もはや忘れ去られかけていた。
だが朝倉氏との戦さが終わると、政親は気が抜けたかのうように床へ伏せる事が多くなってしまった。
「死ぬと思われた時に生き、生きると思われた時に死ぬのが我が人生だ」
政親はたびたび近習にそうこぼした。
親家は病身の政親を気遣って休ませたが、かえって父は息子に話を聞かせようと枕元に呼んだ。
それならばと親家が若い時分の武功話をせがむと政親は必ずそれを拒んで、鈎の陣から退いたことを悔いる話を繰り返し語ったという。
やがて更に体は弱まると「俱利伽羅峠…」と呟いたのを最後に逝去した。かつて受けた恩も恥辱も、決して忘れぬ男であった。
*1:NMIHにせよCK2の教育はConclaveDLC入りの場合、ある程度はコントロールすることができます。特に重要なのが後見人の性格traitと数値で、それに応じてイベントを起こして後継者の性格を決めることが100%でないにせよ可能。ここらへんのイベントは英語版のCK2Wikiの「Education(Conclave)」の記事が大変参考になります。個人的に好きなのは、Sturuggleからの軍事教育へ向かうルートとDutyから管理教育へのルート。特にDutyは、勤勉Trait獲得が容易で尚且つ勤勉は各種上位教育特性獲得にバフがかかるので大好きです!
*2:NMIHでは会戦に勝利したりすると、敵将が寝返ってくることがあります。この寝返りは敵将の主君への好悪感情の度合いや、性格によって決まります。これを利用することで例えばA郡が欲しい場合、会戦に勝利しA郡をもつ領主を寝返らせれば宣戦事由が消失しすぐさま休戦となるため、休戦期間が発生せず更にすぐに違うB郡を目的とした戦争を挑むことが可能。つまり雪崩れ式に敵勢力を壊滅させられます。逆に言えば、性格が悪くて主君と関係が悪い封臣は寝返られてしまう可能性があるので統制に注意。また、重要なのが寝返りしてくるのは自勢力よりタイトルランクが低い敵直臣だけと言う点です。例えば多くのシナリオの足利氏は領地の殆どが王国級タイトル持ちの細川氏の臣下なので、王国級タイトルしかこちらが持っていない場合はどんなに会戦で勝利しても寝返りが発生しにくいのです。