右幕下、二条に動座し大阪城天下普請のこと
右大将は足利将軍家伝来の職である。それは武家の棟梁、朝家の守護者を意味していた。しかし当代の征夷大将軍である藤乗は四位参議にまでしか上らず、京から逐われて公事は滞った。
代わって富樫家一が右大将に上ると、天下は静謐となり朝政に恙ない。禁裏もたびたび家一の庇護を頼みにしたので、家一もその意を汲んで京畿へと移ったのである。
なお加賀本国は嫡男の新介行家へ与えて、富樫の家督も譲ることとなった*1。
家一は関白・二条晴良の屋敷を気に入り、そこへ新御所を構えて邸宅とした。しかし洛中は守戦に難があるから、代わりに畿内で本城と呼べる城も構えることとなった。
そこで選ばれたのが、摂津国・大阪の地である。
大阪には家一の実祖父である蓮如が築いた大阪御堂とその寺内町が形成されており、それを基に城を普請するよう奉行の千又四郎通貞へと命じた。
大阪は渡辺津から京へと至る淀川水運の要地。くわえて”石山”とも呼ばれる良石の産地であり、天下に号令する大城を普請するのに至上と思われた。無論、本願寺との縁も感じたゆえもある。
普請奉行の千通貞は諸国から名工と呼ばれる者らを呼び寄せて、人足一万人をも動かした。昼夜工夫らが鉈や金具を振るい、山も谷も動くかのような賑わいであったという。
通貞の働きは家一の意に叶い、褒美として名物の茶碗や脇差を賜った。
さて、家一は河内の大名・畠山次郎夏義にも、この普請に加わるよう命じていた。だが夏義はのらりくらりと出仕することがない。
「波佐谷殿であればいざ知らず家一めに従う謂れなどあるか。この畠山、腐っても足利御一門!」
這う這うの体で高屋城から突き返されてきた使者の姿に、家一は憤怒した。
「畠山次郎は思い違いをしておるな。いつまで同輩のつもりか」
こうして畠山御退治と相成った。伊勢攻めの最中であった畠山勢を、近江衆を率いた家一が捉える。
殆ど合戦というべき合戦にはならなかった。古強者の夏義が采を振ったが、畠山勢は数刻と持ちこたえること能わない。右幕下直卒の中央が押し込んだかと思えば、攻めては家中一の伊庭修理が左翼から破ってみせる。
残る富樫勢は河内全土に攻め寄せて、守将の幾人かが城を枕に討ち死にした。
十市氏など畠山の被官国衆らが帰順し、夏義は河内を退き大和東端の宇陀へと押し込まれた。家一はこれを無理に追わず、河内をそのまま自身のものとした。
足利五郎出陣し、淀川に白旗散ること
天正2年(1574年)のこと、家一は二条新御所へと温井親宗ら北国衆の諸将を招き、能や猿楽などを鑑賞した。そののち自室に一人呼び入れたのは、温井将監親宗である。
「此度はお主を頼りにしたいことがある」
そう言って家一が持ち出したのは、畿内から西国にかけての兵棋図であった。軍を共に率いて早二十年。親宗はすぐさまその意図を理解する。
「いよいよ西国に攻め入られるのですな」
「左様、先陣を新介に任せるつもりだ。だが若年ゆえに至らぬことも多いと思う。そなたに副将を任せたいのだ。早速いくさの絵図を描きたい」
「無論お付き合い致す」
二人は夜通し兵棋を動かして策を練りあげる。家一はその出来に満足すると、諸国に文を送って兵を整えさせた。西国征伐の始まりである。
当時、富樫方と足利方との戦には三つの戦場が考えられた。信濃、伊勢、そして西国である。
まず信濃については、家一は特に兵を送らないことにした。彼の地には点々と小領の国衆がいるだけで、外征の起点にはなりえない。攻める必要もなければ守る必要もない。
次に伊勢。ここには伊勢六角家や北畠家など、厳密に言えば細川与党ではない大名が割拠している。戦の流れが富樫に傾くか足利に傾くかで、去就が分かれるだろう。
それだけに早急に叩くべきだ。よって家一が自ら近江衆を率いて攻め入ることになった。
最後に西国。足利方の岩盤、両細川家の領国である。これには家一嫡男・新介行家が、温井親宗をはじめ北国衆を従えて先陣。伊勢が落ち着き次第、家一率いる近江衆もここに加わる。
こういった陣立てであった。
久方ぶりの大いくさに万全を期した家一であったが、合戦の実態はいささか物悲しいものであった。武門の長たる藤乗の窮地に藩屏たる大名らは動かず、細川ですらもほとんど兵を出さなかった。
諸城は陥ちるに任せられ、藤乗は備中で震えて篭るばかりで後詰は一向に現れない。
しかしただ一人、西国から打って出た男がいた。足利五郎平義である。
五郎平義は出陣を渋る兄・藤乗に縋って説き伏せた。
「亡き等持院様も京から逃げ出したのち、西国で兵を興して天下を平定したのです。我らに一滴でもあの方の血が流れているのであれば、同じことができましょう」
すると藤乗も折れて、平義に足利重代の家宝である甲冑・御小袖と源氏の白旗を授け、軍代として兵を率いさせることにした。
晴れて平義は奉公衆などを掻き集め、兵3千でもって大阪城を目指して西国を立つ。寡兵である。出陣に際し平義は将兵らを前に、涙ながら語りかけた。
「この五郎、柳営の家に生まれながら惜しくも上様の御役に立つことが凡そなかった。このままでは父祖にも後代にも立つ瀬がない。ものども、最後に私を男にしてくれんか」
諸士もこの言葉に思わず落涙し「お供せねばなるまい」と口々にしたという。
平義が摂津へ入り大阪城にまで迫ると、新介行家はとって返してこれを追った。両軍は淀川挟んで南北で対陣する。
しかし富樫勢は対岸で翻る源氏の白旗を目にして攻めあぐねた。あれは、武者にとって特別の意味を持つ。ただひとり新介だけが容赦する気色もなく、
「源平の合戦の折には、先陣を競って勇者らが宇治川を渡ったという。かの白旗を血に染めてみせようという者が陣中にいなくば、この新介がその勇名を頂こう」
と馬を川に入れる。すると慌てて諸将もこれに続いて、どっと淀川を渡り始めた。温井将監はそれを見て「まさに右幕下の御子」と感に入った様子であった。実際両軍がぶつかってみれば、数に勝る富樫方は危なげなく打ち勝った。
歴々1千余りが討ち死にすると、平義は武運の尽きを知って戦場を離れた。
その後は郎党数人だけを伴って伊勢にまで逃れたが、最後には富樫勢に追いつかれ、腹を切って果てた。誠に立派な武家の誉であり大層に哀れなものだ。
新介は亡骸を丁重に京へと送り、足利累代の菩提寺で弔うように申し付けた。平義の葬列には富樫兵が数十騎も付き従ったので、まるで将軍が帰京したかのようであった。都人は足利五郎の武勇と、富樫新介の鷹揚さを盛んに噂したという。
家一も新介の武功を喜び「家督を奴にやったのは間違いではなかった」と温井将監にこぼし、副将の労を存分にねぎらった。
こうして藤乗方の反攻が潰えると、信濃も伊勢も家一へと帰服しはじめた。西国攻めも滞りない。
藤乗は継戦を諦め和睦と相成った。実弟も亡くし、細川らにもほとんど見捨てられたようなものであったからだ。
新介行家に伴われて京へと赴いて家一と誓紙を交わすと、朝廷へと参内して将軍職を返上した。天正2年(1574年)のことである。
その後日、家一は征夷大将軍職の推任を受ける。
しかし旧主である故行氏公を憚り家一は三度にわたって固辞した。それならばと内裏が鎮守府大将軍の職を示すと、今度は畏れながら就くこととなった。
御礼のために家一は参内して膨大な砂金と反物を献上し、帝よりかたじけなくも御盃を頂戴した。前代未聞の面目である。
足利将軍十三代は遂に終わり、名実ともに富樫の世の始まりの時であった。
内府、両細川を誅すること
天正3年(1575年)内大臣・家一は他の公卿らに諮って、惣無事令を勅令として諸国に発した。諸大名に私戦を禁じ、諸国境目は帝の沙汰で行うという旨である。
帝の沙汰とは、つまり家一の沙汰だ。
そして書状の「従わなくば御成敗がある」という一文は、受け取った諸大名らを驚愕させた。
後日、大阪城に多くの宴客が招かれて壮大な宴が開かれた。家一自らが各人に酒を振る舞う大層な盛り上がりだったという。しかしそこで一悶着が起こる。
毒味役が家一の皿に毒が盛られていたのを見つけたのだ。すぐさま下手人があげられ、即刻打ち首となり三条河原に晒されることになった。
諸国に騒擾の気がある。藤乗を下しその領国を平らげたとはいえ、その全てが心から家一に服したわけではない。むしろ外様を身の内に入れたことで、その気は増した。
すぐに旧藤乗方の諸将の仕置が急務である。
まず信濃国衆ら。彼らは先の戦で富樫方に転んで所領安堵となっていた。中でも北信の村上義益は帰順が早く、信濃平定に資したため北信濃半国を任せることとなった。
次に伊勢。北伊勢の六角家は改易処分。南伊勢・志摩の北畠家もそれに準じた。伊勢の両大名への厳しい対応は先の暗殺騒ぎの疑いがかけられたからだ。
最後に西国の両細川家である。細川氏が国主を務めるのは嫡流支流合わせて、阿波・讃岐・備中・備後。その傘下も含めれば西国四国の全てだ。伊勢のようには恐らくいかないだろう。
家一は、細川家の家宰である薬師寺元勝が反富樫の兵を挙げようとしているとして両細川家の改易を命じた。
無論両者はこれに反発し、挙兵を余儀なくされた。天正4年(1576年)のことであった。
両細川は一万を超える軍勢を仕立て山陽道から摂津へと入った。これを向かい打ったのは、麒麟児の風情の伊庭修理。矢田の地で両軍は激突し、富樫勢は細川勢を散々に打ち破った。
さらに細川勢は大和へ逃れるが、法隆寺門前の戦いで大勢は決する。
細川諸城は次々と開城し、細川又十郎と憲頼はそれぞれ捕縛。いずれも改易追放処分となって、旧領国には富樫庶家や譜代が入れられた。薬師寺元勝も同じく追放処分であった。
細川は足利将軍家の窮地には立たずじまいで、自らの衰亡に際してようやく動いたかと思えば呆気なく破れて家運を失ったわけだ。武家たる者この顛末を頂門の一針とすべきであろう。
銀山城の変のこと
惣無事令より2年程経って、天正5年(1577年)のこと。束の間の平穏は、西国で破られることになった。防長を始め西国六ヵ国の太守・大内家は幼年の当主である大内彦次郎と、その家宰である安芸武田信朝の元にあった。
武田主馬首信朝は大内領国のうち三カ国を領有する事実上の西国の主だったが、決して主従の誓いに逆することなく、慈恵と節度でもって知られた天下の名臣。
しかし、武田主馬首が亡くなりその子である武田九郎信夏が継ぐと、幼主・彦次郎を居城・佐東銀山城で弑逆した。
これを銀山城の変という。
この主殺しを見た家一は、内裏に訴えて武田信夏を朝敵とした。まさに惣無事令違反であったためだ。*6信夏はこれを無視したので家一は兵を整え、西国へ打って出ることとなった。
家一はこの遠征の全てを配下の将に任せることにした。自身は大阪城普請の大詰めにとりかかっていたからだ。
また、この時の家一は病に臥せりがちであったこともある。
理由は分かっていた。将軍としての重責。諸国平定の困憊。しかし何より…。
かつて苦楽を共にしてきた家臣らはもういない。天下を得ても分け合うことができねば何のためか。本願寺を追い出されて加賀に独り入って、幾度も敵と干戈を交え、寝る間にも望んだ天下。それがふと色あせて見えた。
そんな家一が二条新御所で臥せっていると、西国攻めの総大将であった嫡子・行家が訪れた。
「おう新介よ。よく帰った」
「父上、見事武田めを討ち果たしてまいりました!」
「もはやこれで富樫の天下を疑う者もおりますまい!」
「そうか。大儀であった」
輝く行家の顔と対照的に、家一の疲労の色を隠せなかった。しかし、行家の後ろに二人の大男が丸くなって座していることに気が付く。
「その者らは?」
「いえ実は…」
「拙者の直答をお許し願いたい!大内新六郎弘隆と申す!この度、新介殿に陣借りして武田征伐に加わらせていただいた!一族の無念を晴らすことが叶い、恐悦至極でござる!」
「しかし、そこのご子息の家経殿と先陣争いを致した!喧嘩となりもうしたので御裁定いただきたい!」
すると、もう一人の大男。四郎家経が負けじと口を開く。
「お久しぶりでございます父上!この家経に何卒先陣の功を!」
「……父上、お恥ずかしながら私の沙汰ではどうにも収まらず」
と行家が申し訳なさそうに頭を下げる後ろで、大内弘隆と四郎家経は尚も言い争っており、挙句には取っ組み合いを始める。二人の偉丈夫が大人げなく袖を掴み合い冠を剥ぎ合う始末。
思わず、家一は大笑いしてしまった。
そんな家一に、行家も大内新六郎も四郎家経も驚いて不思議がり、喧嘩は気づけば止んでいた。すこし落ち着くと、家一は大内新六郎にも四郎家経にもその場で感状を書いてやって下がらせた。
「かのような者らがまだおるのであれば、まだ天下も捨てたものでもないな」
かつて温井将監と稲葉美濃介が言い争う騒がしい陣中を、家一は懐かしく思い出していた。
坂東兵乱未だ収まらず、右府両成敗のこと
「薄衣侍従、前へ」
「ははぁっ」
齢六十を越えようかという老人が、上に座す家一の前に出でて挨拶を始める。先に右大臣へ上った家一へ祝言を述べているようだが、北国訛りでうまく聞き取れない。
「まぁよい。其許は奥州は九戸の者だな。遠国よりよくぞ参った。饗応をそこの越智神太郎が行うから楽しめ」
安芸武田を下し体制を盤石とした家一は、未だ天下静謐及ばぬ遠国の諸大名らへ上洛命令を下した。奥州は九戸の薄衣清可や秋田の安藤季国、九州は三州太守・伊東祐紀に博多町衆の宗晴盛など。
いずれも多大なる勢力を誇った大大名たちだったが、今や富樫の権勢はそれを遥かにしのぐ。
しかし、まつろわぬ地もあった。関東八州である。
坂東平野の戦乱が甚だしさを増し幾年が経っただろうか。親と子あるいは兄と弟が盛んに争い、民心は荒れて多くの田畑が草の茂るに任せたまま。
特に十余年前からは西に東に両雄が相別れて、およそ戦さが収まる様子がなかった。その両雄のうち一方の名を下野の宇都宮綱粛。そしてもう一方が相模の小山綱辰という。
天正14年(1586年)、家一は両名に停戦令を出した。関東八州の国境は相論によって新ため、それは家一の沙汰によって決めるとの旨だ。
無論両者はこれを突っぱねた。これで退いては、何のために争ってきたのか。右府何するものぞの気概である。
「しかしそれは蛮勇というものだ。嫌いではないが」
家一は両名を朝敵とする。そして北は奥州から南は九州に至るまで、富樫の領国全てより、つまり日ノ本のほとんど全てより兵を出して関東へ向かった。
関東両成敗と呼ばれる大戦の始まりである。
戦略はこうだ。越後へ家一直卒の本隊3万5千。助攻として信濃に1万7千。それぞれが別個に上野に踏み入り、利根川を下るようにして小山・宇都宮勢を打ち払っていく。
大館では宇都宮勢1万が抗したが、無人の野を行くように家一はこれを下していく。あげられた首級はおよそ8千。精強で知られた坂東武者も、歴戦の富樫勢に敵わない。
その後も小山勢と出会えばそれを切り、宇都宮勢と会えばそれを切る。無人の野を行き、草木を刈るが如し。
宇都宮家本城たる宇都宮城、そして小山の鎌倉御所もすぐさま陥落。畿内より持ち込んだ大筒の前には籠城さえままならなかった。こうして家一が関東へ入ってわずか二か月で全ては決した。享徳の乱より数えれば百余年の坂東兵乱。されど治まる時はたったの二月である。
宇都宮綱粛は打ち取られ、小山綱辰は捕らわれ流罪となった。
全てを終え家一は、雪解けを待ち三国峠を経て北陸道から畿内へ戻ることになった。共に行くのは嫡男・行家。関東両成敗が大戦さになると意気込んでいた行家は、思いのほかの落着に肩透かしだったのか、欠伸をかみ殺している。
「退屈か新介」
「はっ…いえ滅相も」
「都に戻ったならば、この家一は太政大臣に上る。戦はこれで終いだが、泰平の世が始まろう。新介にはまだ仕事が残っておるのだ」
先年右大将となった行家のことを、まだ家一は新介と呼んでいた。その呼び名を聞く度に行家は身が引き締まると共に、少し暖かい心地がする。
「退屈凌ぎに、昔話をして進ぜよう。富樫中興はこのような峠道より始まったのだ。長享の折に祖父、政親公は本願寺に加賀を追われ倶利伽羅峠を北に逃げたのだぞ」
「まさか。本願寺と言えば父上の生家ではありませぬか」
「ははは。なに三国峠は長い。聞かせてやろう我が父祖ら富樫累代のことを」
轡を並べる親子二騎。こんな時間はそうは残されていないだろう。新介行家は父の言葉を一つも逃すまいと、家一の老人語りにいつまでも耳を傾けていた。
〈完〉
後代のこと
天下統一後も盆栽的に各国の領地を整理したり、譜代や親藩を配置したりして遊んでいました。本当は官位も整理して家格体系のようなものを作りたかったのですが、官職を思い通りには取ってくれず諦めました。
以下では主だった大名を紹介します。
まずは九州。
西国と四国。
畿内。
東海中部。
北陸。
関東。
奥州。
といった感じでした。他にもお気に入りの家系や人物がたくさんいるのですが(イベントポップアップする木下秀吉が気づけば仏門に入っていたので、家一晩年に進講役として仕えさせていたり…)語ればキリがないのでここまで。
*1:ゲーム的には、遷都コマンドは当分(あと300か月)使えなかったので加賀本国をまるまる息子に譲って無理やり京都へ首都移転しただけです。信長が畿内にいて信忠が尾張美濃にいた時代のイメージ
*2:ちなみにこのイベントは選択肢で結構成功率が違います。高所を全力で取るのが個人的おススメ。
*3:官位の方がもう取れなかったので、タイトル名を変える事で鎮守府大将軍を再現するという完全に趣味プレイ。
*4:将軍タイトルを獲得していて、かつ支配プロヴィンスが十分にあり法律技術が高いと法律タブから惣無事令を有効にできます。惣無事令を有効にすることで、のちのち諸大名に上洛を命令したり停戦を命令できたりします。基本的にNMIHの戦国時代における天下統一は将軍タイトル獲得⇒惣無事令⇒惣無事令違反を取り締まって諸大名を征伐⇒600プロビ支配で上洛命令がアンロックされる⇒全国の大名を臣従させる、というフローを辿ります。
*5:NMIHの簒奪コマンドは主君の威信が低い時摂政が行うことができます。威信を奪うコマンドもあるので、幼君が立って摂政が簒奪することはありがち。
*6:といいつつ、実際には惣無事令を出すことで可能になる「停戦命令」コマンドではなく、朝敵請願コマンドで朝敵指定しました。
*7:朝敵請願は天皇と有効度が一定あり、徳500で実行可能。朝敵となった大名は外交度が下がるだけでなく、朝敵征伐戦争に敗れると全ての領地を失います。
*8:支配下のプロヴィンス数が600を超えると起きる日本統一イベント。これにより全国の勢力を臣従化できる「上洛命令」コマンドが使えるようになる。ついでに家臣がほめてくれて嬉しい。
*9:支配下のプロヴィンス数が600を超えると起きる日本統一イベント。これにより全国の勢力を臣従化できる「上洛命令」コマンドが使えるようになる。
*10:天下統一イベントでアンロックされるイベント。おそらく状況次第で血脈の選択肢が変わるが、条件はあまり知らない…。