ゲームのはなし諸次第

パラドゲーのAARを置くつもりの場所

アルテュール狼王のこと②

ドイツ遠征

攻城機が唸りを上げ、飛び上がった巨石が城壁を貫く。ブルターニュ兵たちが喚声を上げて、崩れた壁の隙間を分け入る。アルテュールはその様子をじっくりと陣から見つめていた。

アルテュール3世
おおよそこの時期くらいのポートレート

主の年1371年、フランスとドイツの国ざかいルクセンブルクの地。ここをブルターニュ軍は攻めていた。義兄のノルマンディー公シャルル、つまり廃王シャルル・ド・ヴァロワのドイツ攻めを手伝うためである。

義兄シャルル公は
神聖ローマ帝国へ攻め込んだ
アルテュールも同盟に従い参戦

内乱を抱えていた神聖ローマ帝国は抵抗できず
諸市は落ちるばかりだった

シャルル公は母を通じ、前皇帝家であるルクセンブルク家の血を継いでいた。それを根拠として神聖ローマ皇帝位を請求したのである。

皇帝だって? フランス王の聞き違いか? 彼がイングランド王をフランスから追い出すべく立ち上がるものだとばかり思っていたアルテュールは驚いた。しかし、シャルル公の「より遠大な意志」を聞いてこれを助けることにしたのだ。

義兄シャルル・ド・ヴァロワ
フランスのかつての王にして現ノルマンディー公
かつての少年王は廃位を経て明敏な君主となっていた

「義弟殿よ、今はまだイングランドとことを構えるときではない。認めなくはないが奴らは強い。だがドイツ人らは分裂し、弱体だ。私が皇帝となりさえすれば、いずれフランスは熟れた果実のようにこの手に落ちるだろう。その時、私はかつての大帝の広大な領域を一つにするのだ」

夢物語だ。だが耳を傾けたくなる《力》フォルトゥナを、この男は持っていた。もしそうなればモンフォール家は強力な同盟者を得るだろう。

が、そうはならなかった。

哀れシャルル公は戦死したのだ。善き皇帝になっただろうに。運命とは水のようなもので、器からこぼれ落ちればもう戻ることはない。

まさかの若死
彼をランス大聖堂に連れて行く夢が…

しかし、アルテュールはこれで挫ける男ではない。シャルル公には一人息子の小シャルルがいた。この少年をアルテュールは見放すことができなかった。だってまるで、幼き頃の自分ような境遇ではないか…。

そこでアルテュールは今度は小シャルルのため、バストーニュの地で皇帝軍に決戦を挑んだ。

バストーニュの戦い
ノルマンディー=ブルターニュ連合軍2万と
神聖ローマ皇帝軍1万がぶつかった

大勝!

アルテュールはこの戦いで、見事にドイツ人に膝を屈させた。皇帝は抵抗を諦め、ヴァロワ家に帝位を譲り渡すことに決めた。

小シャルルはまずプラハでボヘミア王となり、未成年であったためローマ王としてまず認められ、その成人の暁には皇帝として戴冠することとなったのである。

小シャルル
神聖ローマ皇帝にしてノルマンディー公
父の廃王シャルルに似て聡明な子だ

ヴァロワはブルゴーニュに王位を奪われ、ブルゴーニュはイングランドに逐われ、その末にヴァロワは帝位を得たわけだ。まこと運命とは水のようなもの。溢れれば戻らないが、巡りに巡って流転するのである。

成立したヴァロワ朝・神聖ローマ帝国

さて、小シャルルの摂政には母であるペルネル・ド・モンフォール、つまりアルテュールの姉が就いた。

ただでさえフランス人の、しかも女の摂政に帝国諸侯のかじ取りは難しい。必然アルテュールは帝国の後見人として、ヴァロワ家を守らねばならぬ。そしてもちろん、アルテュールにとっても帝国との協調関係は欠かせない。

モンフォールなくしてヴァロワはなく、ヴァロワなくしてモンフォールはない。

摂政ペルネル・ド・モンフォール
夫の壮大な計画に振り回されて随分瘦せこけた

「姉上、次は私の番だ。一年だけ軍を休ませるとしましょう。その後ドイツ人たちの軍勢を借り受けたい」

「もちろん! でも、一体どこに兵を出すって言うの?」

「ナポリだ。私はナポリ王になる」

ナポリ戦争

ナポリ。麗しの国。

アルテュールが青春を過ごした地、妻マリーが生まれ育った地。王になるならばこの国の他はないとアルテュールは考えていた。競技場でマリーに誓った「王冠」に、彼女の故国のそれ以上にふさわしいものはないだろう。

かつてアルテュールを救ってくれた女王マリーは暗殺され、一人息子のロベール2世は国をまとめ切れていなかった。

ナポリ王国
プロヴァンス伯を兼ねるほか
第4回十字軍によって生まれた
ラテン=ギリシアに領地を持つ大国

ロベール2世ダンジュー
ナポリ王
アルテュールの義弟で
内乱を救ってやったこともあったが…

これにお墨付きを与えたのが他でもない教皇庁である。ナポリ王国は元来教皇党の地。そして東方帝国に抵抗するラテン=ギリシアの盟主である。そんな王国に、猊下は弱い王を望まれない。

教皇に訴えかけてナポリ王位を請求*1

主の年1373年、アルテュールは兵を興してナポリへ立つこととした。

彼の側に立ったのはもちろんヴァロワ皇帝家。それに新たに婚姻によって繋がったアラゴン王国だ。ナポリのロベール2世についたのは、トリナクア王とミラノ公とエピロス専制公。アドリア海とティレニア海が、敵と味方で相別れた。

ナポリ戦争
青がブルターニュ方、赤がナポリ方

アルテュールは南仏でヴァロワ軍と合流してイタリアに入るつもりだったが、そこに摂政ペルネルからの早馬が届く。

「アルテュール、まずいことになったの。対立皇帝を立ててポメラニア公が挙兵した」

ポメラニア公の反乱

無理もないことだ。

ヴァロワ家はよそ者で、しかもそのよそ者が皇帝についた途端出兵するというのだから、気にいらない諸侯もいるだろう。あるいはナポリのロベール王が唆したのだろうか…そこまで手が回る男には見えなかったが。

ともかくアルテュールはまずこの反乱に対処することとした。ドイツの軍勢とともにライン川上流の諸侯の諸市を落として回った。徐々に、南部の諸侯は反乱から離脱していく。

占領地の拡張

アルテュールの攻囲を解くべく、諸侯軍は決戦を挑まざるを得なかった。ヴァインハイムの地で皇帝軍と諸侯軍はぶつかり、再びドイツ人たちは膝を屈した。

ヴァンハイムの戦い

反乱諸侯は抵抗を諦めた

ドイツのことは姉ペルネルに任せると、今度こそイタリアに入る。緒戦の地はナポリ北方・ガエタの地。

アルテュールはそこへと敵2万を誘引すると、伏せさせていた帝国軍1万5千と共に挟み撃ちにした。なんてことはない、ヴァンハイムの繰り返しだ。

ガエタの戦い

ナポリの蓋は外れた。ブルターニュ人が、カタロニア人が、ドイツ人たちが洪水のように雪崩れ込む。ナポリもアマルフィもサレルノも南イタリアを飾る宝石たちは一挙に市門を開いた。

ナポリ勢は、狭い「ブーツ」の中を虱の如く逃げ惑うばかり。

ナポリ陥落
敵艦隊は幾度も上陸を図るもその度に蹴散らす

主の年1378年。ロベール2世はついに諦めて、アンジュー家伝来の王冠を差し出して慈悲を請うた。アルテュールは妻マリーとともナポリの大聖堂で聖別を受けて、その冠をかぶった。主に見捨てられた玉座のなんと脆いことか。

ほんの十数年前、偽修道士としてナポリへやってきた彼は、今度は王としてこの地に帰ってきたわけである。

玉座の二人
妻マリーとの約束は果たした

「アルテュ―ルさま、弟の処遇はどうなされるおつもり?」

「……決着をつけねばならないでしょうな」

パンティエーブル女伯の呪いの言葉が再び響く。《人の物が欲しくて欲しくて仕方ないんだ!》……妻マリーはアルテュールの苦悩を読み取って微笑む。

「私のことはお気になさらず。私たちにとって、あの子はきっと害になる」

そうだ先王ロベールはナポリ王国の殆どとサレルノ公位を保持したままである。しかも姉のメリュジーヌ、つまりナポリ戦争でロベールについたトリナクア王の妻を王位につけるべく早速策動していた。

彼を除かなければならぬ。願わくば永遠に……。

前王ロベールによる
ナポリ王位請求派閥

アルテュールは軍を休めることなく、今度はシチリア島に進軍した。ナポリ戦争は終わっていなかったのだ。先の戦いで既に傷ついていたトリナクア王国はほとんど抵抗することができず、全島がすぐに失陥した。

アルテュールの野心を挫くためにヴェネツィア共和国までもが敵についたが、勢いに乗った彼を止めることはできなかった。

鎧袖一触
ナポリ王位が魅力的だったのは
De jure請求戦争でこの動きができることもあった

トリナクア王にナポリを明け渡してしまおうという先王ロベールの不格好な陰謀は、これで成就しえない。

そしてアンジュー朝の創始者であるシャルル1世の治世のころ「シチリアの晩鐘」で分かたれた二つのシチリア王国は、アルテュールの手によってふたたび一つになった。

統一された両シチリア

フレーバー的にナポリ王国を
シチリア王国へ改名しておく

残るは最後の仕上げだ。

全ての望みを失った先王ロベールが慰みの酒に溺れている時、ワインへ毒が混ぜ入れられたのだ。哀れロベールは苦しみながら死んだ。彼には子がなかったので、アンジュー家の財産全ては女王マリーのものとなった。

暗殺
が、普通にバレる

アルテュールの陰謀の手によることは明らかである。「そこまで許した覚えはございませぬぞ!」教皇庁の使者はアルテュールの破門さえチラつかせた。しかし今やローマの北と南は我が勢力圏だ。文句は言わせぬ。

灯台のこちらと向こうの征服者。唯一にして正統なシチリアの王、アルテュール・ド・モンフォールに幸いあれ!

シチリア王としてのアルテュール

シチリア王国
当然ブルターニュもその領地

王として

嫡男ロベールとアラゴン王女セシリアとの結婚式はこのすぐ後のことだ。アルテュールはパレルモのノルマンニ宮殿を整えさせて、縁類を招いてこれを祝った。

ブルターニュから遷都できないので
パレルモに離宮を建てた
シチリア王としての居所のイメージ

王太子ロベール
女王マリー譲りの美男子
教育はそれなりだが良き君主になるだろう

その妻セシリア
アラゴン王女
夫とは趣きは違うがこちらもイベリア美人

また、甥の小シャルルも同じ頃に成人しており、祝いにパレルモへ訪れた。少年は気づけば弁舌爽やかな青年皇帝に育っていた。かつての主君の子の成長も見られて、この日はアルテュールにとって最良のものとなった。

「叔父上お久しぶりでございます」
シャルル2世
神聖ローマ皇帝
寛容、謙虚、物静かな好人物

王国内のアンジュー諸分家の者どもも祝いに来る。征服者であるアルテュールは彼らを厚遇し丁重に扱っていた。中でもドゥラス家、カラブリア家、ターラント家の者は国王評議会に席を与えられるか、あるいは未成年の者はいずれ与えられた。

いまやアルテュールとマリーはアンジュー家の家長でもあるのだから。

アンジュー諸家系図

国王評議会
アンジュー諸家には優秀な者も多かった

「諸卿、これを見てもらいたい。今日のために急ぎ造らせたのだ」

アルテュールは聴衆を集めて、大きなタペストリを広げさせた。一同から感嘆が漏れる。中心には玉座のアルテュール、傍には女王マリー。そしてそれを取り囲むようにシチリアの諸君公が織られている。

ブルターニュ以来の功臣、アンジュー諸家、旧トリナクア王臣らの姿も見える。ブルターニュ人、フランス人、イタリア人、カタロニア人……その全てが集っていた。

タペストリの絵柄選びで
妻と臣下たちを選ぶ

アルテュール王のタペストリ
助言者たちに囲まれるアルテュールを描いている

タペストリは王の治世を良く表している。彼は先王ロベールを謀殺して以降は、調和的な君主として振舞った。カタロニアやイタリアの言葉を覚え、諸侯の伝来の権利を殆ど変えず、陰謀に動いた家臣も最低限しか罰さなかった。土地台帳を作り収入を確保し、各地の街道や城を整備した。

気づけば彼の王位を疑う者はいなくなっていた。

カタロニア語の獲得
なお教師は旧トリナクア王家の出の男

請願で起きる土地台帳イベント
直轄領のコントロールが上がる

こうしてアルテュールが王国をまとめ上げると、その余力を東方へと向けることにした。シチリア王国伝来のビザンツ政策を復活である。

ノルマン人がこの地に王国を建てて以来、歴代の諸王は常にビザンツの征服を目指してきた……そして失敗してきた。ロベール・ギスカールもシャルル・ダンジューも。歴史に名高い男たちが成せなかった望みを、アルテュールは果たしたいと考えたのだ。

当時のビザンツ帝国

全ての富の在り処、コンスタンティノープル。第四回十字軍で傷ついてなお、彼の地は未だに輝きを放っている。かの地を征服し、正統なローマ教会の支配下に置く。その上でいずれは更なる東方…エルサレムへ。

アンジュ―家の家長はシャルル・ダンジュー以来
名目上のエルサレム王であった

主の年、1384年。アルテュールは自ら軍を率いて、ビザンツ帝国へ攻め込んだ。ドイツ勢も含めたシチリア王軍の数は五万にも及び、煌びやかな鎧で着飾ってアドリア海を超えた。

エピロス侵攻

この時のギリシャ人の皇帝はヨハネス5世。

彼は極めて精力的な、帝国の「修繕者」であった。セルビア王国を下し、ラテン人のアテネ公国とエピロス専制公国を滅ぼし、トルコ人たちの侵攻を挫いた男だった。彼は弟のミカエル・パレオロゴスを司令官とし防備させた。

ヨハネス5世
ビザンツ皇帝
偏執的なまでに精力的で頑固

死に絶えたかと思えた帝国は
彼の治世でもって復興期を迎えていた

シチリア軍とビザンツ軍は、帝国の東部国境で幾度も戦った。

名だたる都市という都市全てが攻囲を受け、あるいは奪還された。数で劣るビザンツ軍だったがシチリアの後背地をたびたび脅かし、アルテュールが首都コンスタンティノープルへ辿り着けぬように抵抗した。

しかし、そこを捉えられ会戦となった。

アンゲロカストロの戦い
シチリア軍5万とビザンツ軍2万5千がぶつかる

敵司令官ミカエル・パレオロゴス
兄ヨハネス5世を軍事面で大いに支えた男だった

それぞれが同じ主に祈り勝利を願ったが、数時間の喧騒ののちギリシャ人たちの軍勢が敗れたのは、その思し召しとしか思うほかない。

帝国自慢のカタフラクトは丘がちな地勢に戸惑い、アルテュールはそこへ弩弓の雨を降らしたのだ。潰走する彼らをアルテュールは軽騎兵でもって追いかけ回した。

勝利

帝国の屈服

これで帝国はエピロスを失陥した。

これまでヨハネス5世の賢政を賛美してきたギリシャ貴族たちはうって変わって敵となり、彼は宮廷の陰謀の果てに死んだ。後を追うように弟のミカエル・パレオロゴロスも病を得て亡くなる。あぁ、かくも移ろい易き《運命》フォルトゥナよ。

ヨハネス5世の死
ビザンツ宮廷の陰謀?

アルテュールはこの10年後に再び帝国へ侵攻し、容易く勝利しアカイアを得ている。英雄の死せる国のなんと惰弱なことか。ラテン=ギリシャ国境はおよそ半世紀ぶりに東方へ拡大したことになる。アルテュールの夢はいまだ半ば、だがもう半ばであった。

ギリシャ領を大きく拡大させた

奪う者と奪われる者

『ナポリはしっかりと私が守っております』

『ロベールはブルターニュでしっかりやってるみたい。孫のアンリの可愛さったら、ああ! あなたに早く見せてあげたいわ』

『陛下の勝利と、なにより健康を祈るマリーより』

《親友》マリー

アルテュールはシチリア王となってからそのほとんどを外征して過ごした。気づけば齢50を超えていた。ゆえに王としての執務はナポリに残る妻マリーと、息子のロベールの助けがなければ成り立たなかった。

老境のアルテュールとマリー
マリーは老いてなお美しい

マリーの助け
ヴァンヌの手工業に投資を促される

アルテュールはいつもやり取りする手紙に、彼女の献身を讃える詩を書いて混ぜていた。詩は読むばかりだったが、もっと早く覚えるべきだった。

陣中でも甲冑姿で詩を書く
カタロニア人に学んだ

この時もアルテュールは、フランスの地にいた。

主の年1400年、イングランド=フランス二重王国がシチリア王国のフランス領を攻めたのだ。いつかは彼らと決着をつけねばと思っていたが。甥の盟友シャルル帝やアラゴン王国も加わり、ヨーロッパ王侯の殆どが剣を取る戦いになった。

大いくさだ
係争地はフランスの寸土だが…

エドワード4世
この時のイングランド=フランス王
なにやら魔術に通じるとか
あるいはたぐいまれな賢人か…

これは長い戦になるぞ…そう覚悟を決めて、アルテュールは軍を率いていた。

聞けば領民は近頃自分を「狼」と呼んでいるとか。狼。ときに高潔で美しく、しかし狡猾で残忍。まさに奪い、殺して、生き続けた私にふさわしい添え名だと自嘲する。女伯を殺し、ロベール王を殺し、ヨハネス帝も私が殺したようなものだ。

だが奪わねばすぐに得たものが掌からこぼれ落ちていくように感じられるのは、未だ亡き母のことが頭を離れぬゆえか。そう、今もイングランド人が私の財産を奪おうとしているではないか。

人呼んで「狼王」
忌むべき、しかし強い添え名だ

そんな中、手紙が陣に届く。ナポリからだ。しかし妻マリーからではないという…不思議に嫌な気配がする。

それはマリーが帰天したという知らせであった。そんな馬鹿な。彼女は私の無事を祈るばかりで、自分の体のことなど書いていなかったではないか!

最愛の妻の死

遠征テントの中で一人嗚咽を漏らしていると、小姓がおずおずと入ってくる。今度はブルターニュからの知らせだという。いやだ。聞きたくない。

まさかの息子ロベールも…
恐らく母の死でストレスが突破したか

私の体の中央に埋めがたい穴がぽっかりと空いたような気分がする。いやそれは元から空いていたのだ。穴よ、私が生涯をかけて埋めたはずのもの。騎士道物語で、バイエルン人の友で、マリーで、子供たちで、王冠で埋めたはずの穴。埋めれども塞がれはしないもの。

だが戦場は憂鬱に浸ることを許さない。

イングランド人の軍勢が北に見えたと斥候が伝令する。喇叭が吹かれる。陣が動き出す。結局私にはこれしか残っていないのか。

シチリア軍はイングランド軍と決戦する
最終的に5万と5万がぶつかる

アルテュールは陣頭で自ら剣を取って戦った。「シチリアの狼だ、狼が来た」敵のフランス兵がおびえるのが聞こえる。敵の戦列が崩れる。そうだ私は狼だ。死が訪れるその瞬間まで奪って、殺すのだ。

ふと頭をよぎる、何度もこれまで聞いた女伯の呪いのことば。『人の物が欲しくて欲しくて仕方ないんだ!』。そうだ、だがそうせねば私は生きれなかったではないか!

戦場で過去の敵のことを思い出す
「もはや何も失うまい!」

トネロワの虐殺
歴史的な大勝を得る

主の年1401年のこと、イングランド=フランス王国が和を乞う形で戦は終わった。シチリアの勝利である。それを見終えるとアルテュールは妻のもういないナポリへ帰り、そのまま直ぐ卒去した。

敵にしてなんと恐ろしく、友にしてなんと頼もしい男だったか。彼の名で飾られた王国は孫のアンリが継承した。狼は死んだが、最後に毛皮を遺した。もはやなんびとも彼から奪うことはできない。

孫アンリが継ぐ
再びの幼君の登位

【アンリのこと につづく】

*1:妻マリーの請求権をロベール2世成人前に行使するという考え方もあったのですが、アルテュールの代で王になりたかったためこの形にしました。特にTLatLでは王号の効力がバニラより高いのです。

アルテュール狼王のこと①

少年時代

アルテュール3世
ブルターニュ公にしてモンフォール伯
母から継いだ聡明Trait

アルテュールは賢い子供だった。

亡父ジャン4世が見栄でこしらえた図書室は長らく埃をかぶっていたが、新しい主人はそこへ熱心に通った。母は厳しい人だったが、パリからいくつも新しい写本を取り寄せてくれた。

特にお気に入りはクレスティアン・ド・トロワのブルターニュもの物語。獅子を連れたイヴァン卿、素晴らしきパーシヴァル卿、美徳の騎士たちの大活躍!そしてもちろん欠かせないのが彼ら円卓の偉大な封主、古きブリタニアの王アーサー。

小さなアルテュールにとって、物語で語られる大王が自分と同じ名前を持つことはささやかな誇りだった。

忘れ難い母の死

アルテュールは賢い子供だった。

だから連れられていく母の叫び声を聴いた時も、そして彼女が処刑されたと聞いた時も少年は泣かなかった。泣けば、奴につけ入られるから。

母殺しのパンティエーブル女伯が新摂政に
従姉妹にあたる

パンティエーブル女伯が城に上がり込んで来ると、宮廷の全ては変わってしまった。城の侍女たちは花瓶の花一つ変えることすら女伯にいちいち伺いを立てる。召使たちはどこか皆よそよそしい。

アルテュールは自らの居城で独りぼっちになった。彼を慰めるのはただ物語だけ。

当の母殺しが摂政なので
投獄することもできない

そんな幼い公を哀れに思ったのが、レンヌ司教のルドルフ・フォン・アーベンベルクである。

ルドルフ・フォン・アーベンベルク
レンヌ司教
傲岸な男だがそれに見合う学識の持ち主

司教はアルテュールを城からよく連れ出した。行くのは決まってレンヌの市の聖堂。礼拝のあとで陽が落ちるまで神学について論議するのが、少年の新しい日課となった。

「殿下は唯一正統なブルターニュの主。その権利はキリストの騎士としての奉仕と、神の恩寵にのみ依るのです。摂政殿などに依ってではありません」

「はい、司教様。きっと全てを取り戻して見せます」

ルドルフとの対話
嬉しい性格決定イベント
野心的Traitを得る

聖堂の一角で聖アウグスティヌスについて論じ合っている時、アルテュールは城の鬱屈とした日々を忘れることができた。ルドルフは少年をあくまで一人の友人として対等に扱ってくれる、そんな大人は初めてだった。

このバイエルン人の意固地で気ままな風情をアルテュールは気づけば好ましく思っていた。

その後同じイベントが再び起きて
熱心Traitを獲得
更にルドルフとも友人に

そんなある日、ルドルフはいつになく真面目に言う。

「もう殿下はブルターニュを出なさいませ。ここは危険だ。レンヌにさえパンティエーブル党の影が濃くなってまいりました。」

「…一体どこへ行けば?」

「パリはダメです。まだまだ戦争で大騒ぎだ。ドイツは退屈ですよ、バイエルン人の私が言うくらいには。ナポリにいたしましょう」

「ナポリ?」

「当代のナポリ女王はカペーの家の出、殿下の血族。きっと世話をしてくれるはずです」

ナポリ王国
イタリア随一の大国

マリー・ダンジュー
ナポリ女王
絶世の美女で謳われた

「私は若い頃にナポリ大で学んだことがあります。通えるよう紹介状を書きましょう。逃げるだけじゃなくて学ぶんですよ。それも一介の少年修道士に化けて…心躍りませんか?」

ナポリ大学
ヨーロッパでも古い伝統を持つ大学の一つ

大学。ルドルフの意外な提案に、少年アルテュールの胸は高鳴った。城の蔵書はとっくに読みつくしてしまっていたところ。それに身分を隠して学生たちに紛れ込むなんて、まるでエレイン姫と出会う時のランスロット卿みたいだ!

アルテュールは快諾し、司教の手引きでブルターニュを離れることになった。いざ、花のナポリへ。母を亡くして以来曇っていた心に、ようやく光が差したように少年は感じていた。

ナポリ女王を後見人にする
大学はかなりの費用だが
教育に大きなボーナスが入る

青年の帰還

主の年、1355年。少年アルテュールがブルターニュを出て4年経ったとき。彼はナポリ遊学から帰る事になった。友人のルドルフ司教より、反乱が起きたと手紙が来たからだ。

前女公のブランシェの挙兵である。

ブランシェ女公立つ
戦力差に注目

ブランシェは公位を失ったとはいえブルターニュにおいて最大の領主であり、公軍の二倍以上の兵を擁していた。

そしておそらくは、あのパンティエーブル党の支援を受けている。彼女の婚約者、ギィ・ド・シャティヨンはパンティエーブル女伯の息子だったからだ。女伯は今回の反乱には公然とは加わっていなかったが…。

ドルー=ブルターニュ諸家の系図
ライバルが手を結んでしまった…

そこでアルテュールは女王マリーに助けを求めることにした。

彼をかわいがっていた女王は、同じ名を持つ娘マリーとアルテュールを婚約させることにした。そしてナポリ兵1万を連れて、親征してくれるのだという。これ以上にない申し出だ。

王女マリーとの婚約
カペー一族の名声が結婚に大きな補正をくれる

同盟参戦も快諾
「ナポリ兵の恐ろしさを知るがよい!」

ナポリ軍とブルターニュ軍は合流し、反乱者の軍勢とぶつかり合った。デルヴァルの丘で味方1万5千と敵方6000が陣を敷いた。会戦である。

デルヴァルの戦い

ブルターニュ兵を率いるのは義兄のオリヴィエ・ド・クリッソン。亡き母が見込んだ少年は、公国で一番の騎士になっていた。彼は自慢のクロスボウ兵を率いて反乱軍を叩きのめした。

「あれこそ我がケイ卿だ!」陣で見守るアルテュールは喝采する。

大勝
ナポリの重装騎兵も活躍した

オリヴィエ・ド・クリッソン
義兄にして若き元帥、そして最良の騎士

デルヴァルの戦い以降は反乱軍の勢いは明らかに減じた。前女公ブランシェの座すヴァンヌの街も陥落し、ブルターニュの全土の支配権を少年アルテュ―ルは回復した。

反乱鎮圧

「前女公を牢から出してはなりませぬぞ、あれは危険だ」

久しぶりにあった友人のルドルフ司教は、そう助言する。

確かにそうだ。権勢などナイフ一本で覆せるのだと、私はこの国で誰よりもよく知っている。実際もしアルテュールが死ねば、従姉妹のブランシェはうってつけの後継者になるだろう。*1

「反乱の咎だけで剥がせるのはたかだか1~2領。それではブランシェ殿の力はあなたを上回ったままでしょう。そこでまずはこれを使いませ」

彼の手には数枚の証書が握られていた。

ルドルフによる請求権捏造

亡き母生前からコツコツ請求権を貯めていた

「そして、前女公を牢に入れたままこれを繰り返すのです。彼女の領地は20はありますから時間はかかるでしょうが」

助言通りアルテュールは、前女公からヴァンヌとその周辺を剥奪した。そして主の年1359年、アルテュールは成人し公として政務を始める事を宣言した。

いまやアルテュールは一人前の公、一人前の騎士となっていた。

熱心で野心溢れる不世出の戦略家に
大学での教育が功を奏した

その領地(緑が直轄領)
公国の東南部を中心に地盤を固めた
ブルターニュの中心地ヴァンヌを首府に

公国の掌握

アルテュールは成人してすぐにバチカンへの巡礼を行った。

「敬虔な巡礼」を選んで少しでも信仰点を稼ぐ

ルドルフ司教などが同行し、公はアルプスを越えてイタリアに入った。司教はすでに老境に差し掛かって久しく、この巡礼は彼にとっても悲願であった。

老いていく友人を見るのは辛いものだ…

アルテュールはイタリアで多くのことを得た。古いラテン語の神学書と訳したり、地元の聖所を訪れるなど経験を積む。

そして何より、彼は善きキリスト者としての比類ない評判を集めることに成功した。

すべてのリソースを信仰点につぎ込んだ
フォーカスも神学に振って少しでも増やす

バチカンにたどり着き教皇との接見を許されると、アルテュールはブルターニュの窮状を訴えた。

「前女公ブランシェは魔女の類であり、破門に値します。彼女の私領は公たる私めが治めるべきです」。これに教皇はうなづく。

幸いブランシェの魔女疑惑が発覚し破門に
信仰点でも請求権を得ていく

「また摂政のパンティエーブル女伯は我が母を殺し、ブルターニュを恣としております。彼女より統治を取り戻さねばなりません」。これにも教皇はうなづく。

ここでも信仰点を使って
摂政から権力を奪っていく

こうした教皇の後援に焦りを感じたのか、摂政パンティエーブル女伯が”ボロ”を出す。彼女が公国収入の一部を横領していたことが発覚したのである。

アルテュールは帰国すると、すぐさまパンティエーブル女伯は捕らえ摂政権を剥奪した。こうして彼は名実ともに公国の唯一の統治者となる。

主の年、1361年のことであった。

通常なら定着した摂政は捕縛できないが
横領発覚から派生するイベントでは逮捕できる

早くも定着した摂政制を終わらせることができた

アルテュールによる公国掌握の動きは、その後1364年には完遂することになる。パンティエーブル党の領地は全て没収されて、ブランシェ前女公はイングランドへ追放処分となっている。

だが全てが終わっても、女伯だけは決して牢獄から出さなかった。

囚われの女伯

「やはりあんたはあの女とそっくりだ! 簒奪者の穢らわしい息子め! 篤信など見せかけで、人の物が欲しくて欲しくて仕方ないんだ!」

呪いの言葉を吐く女伯の首を、何度も何度も切り落とそうかと思った。もう母の名を汚させないように。でも、できない。手を下せばこの女と同じになる。

女伯の死
親族殺しtraitがつくのが嫌で獄死させた
脱出イベントが起きる度に捕縛しました

結局パンティエーブル女伯は、その最期まで獄中に繋がれて惨めに死んだ。母ジャンヌが殺されてから、もう10年以上の時が経っていた。

ブルターニュのほぼ全土を直轄化
ひたすら信仰点を貯め請求権を取りました
8000以上は信仰点を使ったはず

公を長年支えたルドルフ司教も同じ頃に卒去している。アルテュールの古い敵も、古い友人も去ったのだ。時代は移り変わろうとしていた。

貪欲なふたり

競技場に押し寄せた群衆の歓声が大地を揺るがし、楽隊の喇叭の音が空をつんざく。

1367年、フランスはノルマンディーの地。そこで開かれたトーナメントは、馬上槍試合の決勝戦を迎えようとしていた。

トーナメント
イングランド海峡に位置するチャンネル諸島で開催された

実を言うと、つい昨年フランスとイングランドは干戈を交えたばかりだった。しかもイングランド王エドワード3世がブルゴーニュ朝を打倒し、新たなフランス王として戴冠したばかり。

今回のトーナメントは、新たに成立した二重王国の両国の騎士が出場する、親睦の意味を兼ねたものであった。

エドワード不屈王
イングランドおよびフランス王
イングランドを勝利に導いた偉大な英雄

成立してしまったイングランド=フランス二重王国
極めて強大

しかしそんな題目はともあれ、フランス人たちは面白くない。イングランド人騎士らはどうも威丈高だ。ここでは連中の鼻を明かしてやろうと躍起になったが、おしくも今回のトーナメントでフランス人たちの成績は振るわない…。

そんな不穏な空気の中で、一人の紋章官が貴賓席の前に颯爽と現れて、口上を述べ始めた。

「ご列席の貴人貴婦人のみなみなさま、お静かにお静かに! さぁ誇りをもってご紹介いたします! 我が主人は鳥に例えれば鷹、木々に例えればレバノン杉、天体に例えれば太陽にございます! シャルル大帝の裔にして、かの大ブリテンの王と同じ名を持つ、騎士の中の騎士! ブルターニュ公爵、アルテュール……ド・モンフォーーォル!」

白貂柄の紋章を身に着けて、騎乗のアルテュールが競技場に入場してくる。彼は並みいる騎士をうち倒して決勝まで駒を進めていたのだ。

騎士姿のアルテュール

フランス人だ。我らが代表だ。必然、歓声は割れんばかりとなる。

そんな会場の熱気を尻目に、アルテュールは貴賓席に向かって手を振っていた。その先には貴賓席の中でひと際目を引く麗人が座っている。白い肌はシルクを思わせ、赤い頬は花びらのよう。

名をマリー・ダンジュー。ナポリ王女にしてアルテュールの妻である。

かつて婚約したマリーが正式に妻に
美人traitの持ち主
執念深く嗜虐的、そして野心を秘める

旗振り役が合図する。いよいよだ。アルテュールは馬を走らせ始めた。トロット、そしてギャロップへ。ランスを留め金と脇でしっかり締める。相手のイングランド人騎士とすれ違ったその瞬間、こちらの槍が敵に突き刺さり、砕けた――命中だ!

優勝!
ゴールドと威信点を稼ぐ

観客たちがワッと湧く。アルテュールは賞品の指輪を進行役から受け取ると、そのまま貴賓席へと駆け上がって妻マリーの前に跪いた。

「我が勝利をあなたに捧げます」

差し出された指輪をマリーはしげしげと見つめ、受け取る。

「私、欲張りなのです。これでは足りません」

意地悪に微笑むマリー。アルテュールもつられて笑みがこぼれる。お互いナポリ育ちで、満足を知らぬところがそっくりだった。

たかがブルターニュ一つ、あるいはトーナメントの作り物の栄光で、足りる二人ではない。より高みへ。私たちならばいけるのかもしれない。不意にパンティエーブル女伯の呪いの言葉が脳裏に浮かんだが、アルテュールは振り払う。

「ならば次は、王冠を」

アルテュールは、マリーの手の甲をとってキスをした。を見た群衆らの歓声はより一層大きくなっていて、いつまでも終わることがなかった。*2

その後も機会を見つけてアプローチし
無事友人となった
マリーがアセクシャルなので魂の伴侶にはなれない*3

似た者夫婦
このあたりからアルテュールは髭を蓄える

 

アルテュール狼王のこと② につづく】

*1:軽率にも姉妹を通常結婚にしてしまったので、子供ができるまでにアルテュールが死ぬとほとんどゲームが詰んでしまう!

*2:単純にトーナメントあんまやったことなかったので出たかっただけなのですがジョストは危険なので避けるべきでした。ただ一応少しはちゃんとしたゲーム的な理由もあるので後述するつもりです。

*3:ゲーム的に言えば、出産確率を向上させるアーティファクトが余ったので妻にあげてブーストする…という狙いの動きでした。あと友人が妻だと時々良いイベントを引いたり、摂政として良く働いてくれます。ちなみにアセクシャルな配偶者は出産確率が多分低いのですが浮気しないので、浮気不倫が地雷の私的には結構助かります。

摂政ジャンヌ・ド・ダンピエールのこと

三人のジャンヌの戦争

アルテュール3世
ブルターニュ公にしてモンフォール伯
ドルー=モンフォール家の公としては二代目

ブルターニュを相続した時、アルテュールはほんの幼子であった。

父ジャン4世は剣によって公となり、その栄光を身に浴す間もなく死んだ。主の年1344年のことである。

その領地 ブルターニュ公領
白色が公直轄領

摂政として、公母のジャンヌ・ド・ダンピエールが領邦を治めることになった。最愛の夫を亡くした悲しみを受け止める時間は、彼女に残されていなかった。

ジャンヌ・ド・ダンピエール
ブルターニュ公領摂政
フランドル伯ルイの妹

剣によって得られた座は、剣によって脅かされるものだ。

かつてはジャン4世と共に戦った貴族たちが、今度は彼の子を引き摺り落とすために剣を取った。貴族たちが新たに公に就けようとしたのは、公家傍流のパンティエーブル女伯とその夫シャルルである。

ジャンヌ・ド・パンティエーブル
パンティエーブルおよびリモージュ女伯
アルテュールにとって従姉妹にあたる
傍らにいるのがシャルル

ドルー=ブルターニュ諸家の系図

パンティエーブル党は、アルテュールの母で公国摂政であったジャンヌ・ド・ダンピエールに公座を明け渡すように迫った。不道徳と変わり身が彼ら貴族の常である。

早くも簒奪派閥が立ち上がる

ただの寡婦ならば身を引いただろう。高等法院に遺産を保護してもらうよう何枚か手紙を書いて、あとは亡夫の魂の平穏を祈る修道院暮らしだったろう。子も一介のモンフォール伯として生を全うしたかもしれない。

しかし、摂政ジャンヌはただの女ではなかった。獅子の心の持ち主。ナントからブレストにかけて一番の女。断固として反逆者たちを討つことにした。

「あえて、パンティエーブル党の者らを切り崩しはしませぬ」

「何故でございましょうか」

軍議

いざとなれば矢面に立つ麾下の騎士たちが不安そうに尋ねる。主人を失ったゲランドの城の領主の間で、摂政ジャンヌを囲みモンフォール党の者たちが顔を寄せあっていた。幾許かの小貴族と司教らである。

「戦になれば、亡き夫が雇い入れたイングランド傭兵が使える。戦が二年後三年後となっては遅いのです」

「なるほど…」

先の継承戦争で使った傭兵
雇用期間がまだまだ残っている

「しかしそれでも兵が足りませぬぞ、パンティエーブル党も兵3000は出せましょう。当方とはあくまで互角。いや騎士が少ない分不利だ」

「そこは我が兄上、ルイ伯を頼ります。フランドル兵が加われば7000は固い」

「おお!フランドル伯がご参戦なされるのか!」

ルイ・ド・ダンピエール
フランドル伯
ジャンヌの実兄にしてアルテュールの伯父

「力になろう」
ジャン4世とは同盟を組んでくれなかったが
甥には甘い

同じく主の年1344年のこと、摂政ジャンヌは反逆者パンティエーブル女伯を捕縛するため兵をあげた。

この戦いは先のブルターニュ継承戦争とひとつながりの戦争と見なされたので、摂政ジャンヌとパンティエーブル女伯ジャンヌ、前女公母ジャンヌの名からとって「三人のジャンヌの戦争」と世に呼ばれた。

開戦

女伯をはじめ、パンティエーブル党の面々つまりロアン子爵、レンヌ子爵、シャトーブリアン男爵ら殆どのブルターニュ貴族も次々挙兵し戦となった。

大領主たちの中で摂政ジャンヌについたのはわずかにクリッソン領主のオリヴィエのみであった。

青がモンフォール党、赤がパンティエーブル党
幼く派閥に入れなかった前女公ブランシェ以外の
公国のほとんどの諸侯が反乱に加わる

まず機先を制した摂政ジャンヌは、パンティエーブル近郊に召集していた公軍3000でもってこの地を攻撃した。女伯の夫のシャルル・シャティヨンが兵1000でもって打って出たが、勇ましく戦って敗死した。

パンティエーブルの戦い
緒戦で勝利を収める

シャルル・シャティヨンの死

その後、摂政ジャンヌは会戦を避けて分散したパンティエーブル党の小勢だけを襲わせた。

「パンティエーブルの者どもは寄せ集め。我が方はいずれ来るフランドル軍を待つ時間稼ぎをすればよいのだ」

敵主力を避け分散した小勢だけ狙う
更に東に兵を送ってブロワ軍の合流を防ぐ

主の年1347年、戦が始まって三年が経っていた。ようやくフランドル軍がブルターニュへやってきた。*1

公軍とそのまま合流し、両党の会戦となった。モンフォール党は6000、パンティエーブル党は2000ほどであった。

ロストレネンの戦い

モンフォール党のクロスボウ隊1000が丘の上から散々に撃ち払い、パンティエーブル党が崩れたところを重装歩兵がなだれ込んだ。恐ろしいほど多くの血が流れて川となり、死肉は丘となった。決定的な勝利であった。

虐殺

2000のうち生き残って戦場を離れられたのは、わずか18人であった。

余勢を駆ったモンフォール党は、敵方のパンティエーブルやロアンの諸城を落として回った。その折、一人の兵士がロアン子爵の居城で立派な拵えの剣を見つけ、摂政ジャンヌへ献上してきた。

アーティファクトの鹵獲

捕縛されていたロアン子爵を公座に呼び寄せ剣の由来を聞くと、曰く「かつてブルトン人の王であったアーサー王の宝剣であったエクスカリバーが、流れ流れて当家に伝わったのです」と…。摂政ジャンヌはこの話を苦笑して聞き、

「それではそういうことにしておきましょう。我が子アルテュールは、奇しくもかの王と同じ名。いずれ彼を守る剣となりましょう」

とモンフォール公家の宝剣とした*2

エクスカリバー”を手に入れる

その後、ロストレネンの戦いで抵抗の意志を完全に失ったパンティエーブル党は降伏した。摂政ジャンヌは息子の公位を守り切ったのであった。

”三人のジャンヌ”の内で勝利を手にしたのは、摂政ジャンヌ・ド・ダンピエールその人となったのである。

勝利

女摂政の差配

ブルターニュ公家直轄領
レンヌ、レなど斜線部を叛徒から剥奪した
計9プロビを持つ

「レ男爵とシャトーブリアン男爵は領地取り上げの上追放せよ。レンヌとパンティエーブル、ジョスランは公直轄領とする」

摂政ジャンヌが次々と公璽を羊皮紙に押していく。聖職者たちがそれを運びだす。かつてはジャン4世と愛を語らったゲランド城の執務室で、彼女はひとり机に向かい続けた。

全ては息子アルテュールのため。亡夫が遺したブルターニュを治めるため。

ジャンヌは摂政として有能かつ忠実
摂政コマンドは収入増加に振る

摂政ジャンヌは新領のうち、レンヌとレの地を重点的に開発することに決めた。レンヌでは市壁を改築したうえで監視塔などを増設し、ここを軍事拠点として定めた。レでは港を整備し公領収入の下支えをする。

レンヌとレ
それぞれ駐屯特化と収入特化に

公直下の常備軍は増員され、特に「三人のジャンヌの戦争」で活躍したクロスボウ兵は500までその数を増やした。並みの兵が一矢射掛けるうちに、ブルターニュ弩兵は二矢放つ練度を有したという。

およそ倍増された常備軍

自慢のクロスボウ
レンヌに駐屯させて+補正する

外交にも走り回る。娘のアリックスを、モンフォール党のクリッソン家に嫁がせた。当主のオリヴィエは見るべきところのある少年だ。いずれアルテュールの良き義兄になるだろう。

オリヴィエ・ド・クリッソン
若きクリッソン領主
父を戦で亡くす

またもう一人の娘ペルネルについては、ノルマンディー公のシャルル・ド・ヴァロワとの婚約を取り付けた。彼はほんの少し前までは「フランス王シャルル4世」と呼ばれていた少年だった。

シャルル・ド・ヴァロワ
前フランス王にして現ノルマンディー公

この少年の哀れな経緯は語るに値するだろう。

ほんの少し前、フランス王国を内紛が襲ったのだ。王家であるヴァロワ家に対して、ブルコーニュ公が諸侯の支持を集めて反逆したのである。イングランド王による南仏侵攻がいまだ終わらぬうちであったのに。

ブルゴーニュ公ウード4世は王位簒奪のため挙兵
主導したのは妻のジャンヌ・ド・カペー

ウード4世
ブルゴーニュ
ブルゴーニュ家は最も古いカペー親王
亡き王フィリップ5世の婿でもあった

ヴァロワ朝に不審死が続き
幼君シャルル4世が即位した経緯がある
フランス王国には陰謀が蠢く…

少年王シャルル4世はイングランド王にアキテーヌなどを割譲し停戦。ブルゴーニュ派との戦いに集中したが、結局敗れて王座を追われることになったのだ。その後シャルル・ド・ヴァロワは一介のノルマンディー公として新王に臣下の礼を取る。

ブルゴーニュ朝の始まりであった。

フランス王国家系図
ヴァロワ家からブルゴーニュ家に王位が移る

ウード2世即位時のフランス
ポワティエやアキテーヌを失陥している

しかし、この若い公をジャンヌは同盟者に選んだ。フランス王位を失ったとはいえ、彼がフランスの第一の実力者であることは間違いなかったからだ。

ブルターニュ公の同盟関係
紺がノルマンディー公で黄がフランドル伯

ここまですれば、アルテュールの政権は当分のうちは安泰だろう。

執務を一通り終えて、ようやくジャンヌはペンを置いた。もはや日は落ちて、蝋燭も尽きようとしている。彼女はこの頃、城の誰よりも遅く寝て誰よりも早く起きる生活であった。寝室ではもうとっくにアルテュールも床についている頃だろう。

我が子の体は久しくこの手で抱いていない。でも、それでいい。私は統治者としても母親としても愛されるより恐れられることを選んだのだから。

厳格な摂政だったジャンヌは
母親としても苛烈なところがあった

そう物思いに耽っていると、なにやら城の広間の方が騒がしいことに気がつく。男たちの唸りと女たちの金切り声。わずかに剣と剣が交わるような音も聞こえる。

ハッとしたジャンヌはアルテュールの眠る寝室へ走る。が、数人の鎧に身を包んだ兵士たちが立ち塞がった。彼らの握る剣は血に濡れていた。

ジャンヌは顔を青くした。諸侯の支持を失いすぎたのだ。「アルテュール!部屋から出てきてはなりません!アルテュール!」そう叫ぶジャンヌを無視して兵士たちは彼女を引きずり出した。

彼女は素足のまま夜通し歩かされて、女伯の城のある南仏リモージュへ連行された。

パンティエーヴル女伯によるクーデター
三人のジャンヌの戦争では敗れたが
女伯はそれで屈する女ではなかった

公母ジャンヌは摂政を解任され捕縛された

主の1351年のこと、前摂政ジャンヌはリモージュの地で処刑された。「伝統ある諸権利の弾圧者」として。彼女の強勢を畏れたブルターニュ貴族たちは胸をなでおろした。戦場での勝利は宮廷劇の敗北にとって代わられたのだ。

母ジャンヌ・ド・ダンピエール死す
新摂政のパンティエーブル女伯の命

幼いアルテュール公は父に続き、母までも失うに至った。彼がいまだ堅信式を済ませたばかりの僅か8歳の頃のことである。

 

アルテュール狼王のこと① につづく

*1:開戦時フランドルが他の戦争で忙しかったため、到着が遅れてしまいました。それを見越して遅滞戦術に徹していたかんじです。

*2:エクスカリバーは、ブルトン人貴族やブリテン島の城を落とすと確率で手に入るアーティファクトです。説明文を読むに怪しい代物で、じっさい複数個手に入れることも珍しくありません…

ジャン三十日公のこと

大洋を望む

1337年の西ヨーロッパ

パリを西に行った果て、イングランドへ伸びる角のような半島。それがブルターニュの地である。山がちで小麦は取れぬ。なので民草は漁と牧畜、それから塩で生計を立てた。

古くよりケルトの民であるブルトン人が暮らし、いまはフランス人の公を戴く邦であった。

ブルターニュ公領
この時代はフランス王国に半臣従半独立の微妙な立場  

この半島の根元、ゲランドの城は浜にほど近いところにある。

城壁を登ればすぐ南にビスケー湾を望むことができた。海塩を運ぶ職人たちの掛け声がすぐそこで聞こえる。そこで目を細めて洋上を眺める甲冑姿の男がいた。

城主のジャン・ド・モンフォールである。

ジャン・ド・モンフォール
モンフォール=ラモーリー伯にしてゲランドの領主
野心家にして冷血漢

その領地
二つのプロビを持つ
ブルターニュ半島のゲランドが首都州

体の線は細くもう老年の歳頃。だが着る古した鎧と顔に刻まれた皺が、彼が歴戦の勇士であると語っていた。海風が吹くたびに帯につけた長剣が揺れてカチャカチャと音を立てている。

モンフォールの瞳は凪いだ海とは裏腹に炎が灯っているようだった。眺めているのは、南へ向かうイングランドの大船団だった。

イングランド軍の大船団

戦だ。それもとびきり大きな戦が始まるのだ。

主の1337年、イングランドエドワード3世はフランス王フィリップ6世の王位を否定。自らがフランス王に即位すべく戦端を開いた。

カペー直系が途絶えたことで、女系でその血を引くエドワード3世と、男系の縁類であるフィリップ6世との間に継承戦争が起きたのだ。

英仏戦争
ギュイエンヌ領いわゆるアキテーヌを確保すべく
イングランドの南仏侵攻が始まった

エドワード3世
イングランド
若くして王としての風格を持つ名君で
TLatLの主人公ともいえる

フィリップ6世
フランス王
カペー直系断絶で王位が転がり込んできた”幸運王”

イングランド王とフランス王の系図
最後のカペー朝フランス王であるシャルル4世から見て
エドワード3世は甥、フィリップ6世は従兄弟にあたる
ついでに他の女系継承候補も示した

「あれはボルドーへ向かっているな」

そう呟くと傍らの妻、ジャンヌが口を開く。

「もうあなたも向かう頃よ。あなたにはあなたの戦争がある」

若く美しい女だ。まなじりも鼻先も全てが鋭い。見る者の心を柔がせるというよりは凍らせるような美しさである。その振る舞いは夫のモンフォール以上に堂々として勇気と知性に満ち溢れていた。

俺には過ぎた女だ、とモンフォールは思う。

ジャンヌ・ド・ダンピエール
モンフォールの妻
フランドル伯ダンピエール家の出

「ああ、しばらく城はそなたに任せる」

そうだ俺も始めるのだ、俺の戦を。

ゲランドの城からモンフォール率いる軍勢が出立した。乗馬騎士が数人とクロスボウ兵が100で、あとは徴募兵でしめて500ほどの寡勢だ。向かうのはブルターニュ半島の先端・レオンの地。

主の年、1337年のことモンフォールはかの地を奪い取るべく、レオン領主エルベ・ド・レオンを攻めた。彼はレオンへの請求権を父からの相続により有していた。

レオン争奪戦
モンフォールは始めからレオンの請求権を持っていた

互いの手勢はほとんど同じだった。小貴族同士の小競り合いだ。だがモンフォールには同盟の利があった。

妹の夫、ヴェネツィアのドージェであるフランチェスコダンドーロがはるばるイベリア半島を大回りして兵を繰り出してくれた。ありがたいことだ。

難なくレオン攻略

こうしてモンフォールは難なくレオンを手に入れた。「正統な請求権に従い、卿よりこの地を頂く」捕えられて肌着一枚のエルベ卿を、モンフォールは城から蹴り出した。

勝利
とりあえず3プロビの伯に

レオンの攻略からゲランドへ戻る途上、ブルターニュの首府ヴァンヌを通りがかった。代々のブルターニュ公城がある都市だ。

レオンなど始まりに過ぎない。あそこの公座に座るための最初の一歩なのだ。

ブルターニュ公位への野望がジャンにはあった

ジャン3世善良公
当代のブルターニュ
異母兄にして主君

異母兄のジャン3世に男子はいない。順当にいけば次の公爵位は弟のモンフォールのものであったが、ジャン3世はその継承権を認めなかった。異母兄弟同士の仲は長らく拗れきって、二人は忌み嫌い合う仲だったからだ。

待てど暮らせどモンフォールは公になれぬ。

廃嫡trait
これによりモンフォールは
あらゆるカペー系の継承権を失っている

ブルターニュ系ドルー家の家系図

一時はジャン3世がジャンヌにさえ手を出そうとして、決闘騒ぎにまでなったこともある。それもモンフォールには気に入らない。

あの美しいジャンヌに、老いぼれめが何を色気を出す! いわく「彼女は愚弟にはふさわしくない」だとかなんとか。あの聖人面を思い出すだけで、はらわたが煮えくり返る。

妻ジャンヌにロマンスを仕掛けていたところ
ジャン3世が邪魔してきて決闘騒ぎに

ジャン3世とは開始時点からライバル関係

モンフォールがかつての怒りを思い出すことに夢中になっていると、気が付けばもうゲランド城が近い。城壁から身を乗り出して、妻ジャンヌが手を振っているのが見えた。

モンフォールは戦疲れが嘘のようにすっと体が軽くなって、馬に鞭を入れて走りださせた。小さくなっていく兵たちに声をかける。

「諸君らは疲れていよう! ゆっくりと来るように! できる限りな!」

何があろうとも、彼女を公妃にするのだ。あれはナントからブレストにかけて一番の女だ。ならば一番の男の妻でなくば嘘になる。そのためであれば、この身が燃え朽ちたってかまわない。

冷血漢のはずの老将軍は、自らの滾りを抑えることができなかった。

モンフォールは妻ジャンヌを溺愛し
ジャンヌもそれに応えて「魂の伴侶」となった

うまい話し

ようやく俺の時代がきた。

主の年1342年のこと、ブルターニュ公ジャン3世が卒去した。齢56であった。これでこの家にもう男子はいない。ブルターニュ公になる時が来たのだ。だが実際にブルターニュ公位を継いだのは、とある幼子であった。

ブランシェ1世
ブルターニュ女公
モンフォールから見ると姪にあたる

ブランシェは、最晩年にジャン3世がもうけた女子であった。たかだか4歳である。モンフォールはパリ高等法院に訴えたが、彼が継承権を失っていることが再度認められて棄却された。

無論それで引き下がるモンフォールではない。彼はブルターニュ貴族らに声をかけて、姪から公位を引き剝がしにかかった。

ブルターニュ公位簒奪派閥を立ち上げる
諸侯のほとんどがこれに参加した

しかし…

「無理な話ね」

いらだつモンフォールを妻ジャンヌがなだめる。そうだ、どう考えても兵数が足りない。

モンフォール派全ての所領を足し合わせても出せるのは兵2000。ブランシェはそれを多く上回る4000。到底太刀打ちできない。妹の夫のドージェ殿はとっくに死んでいた。

ならば傭兵をと思っても、傭兵を雇う金がない。ゲランドとモンフォール=ラモーリーの所領から上がるのは月にフランス金貨で僅か3千リーヴルほど*1。だが傭兵を1000雇うには20万リーヴルは要る。

資金も貧乏伯爵には限界がある

モンフォールは頭を抱えるほかなかった。実のところ、彼はもう自分がそう長くない事を分かっていた。

何度も妻ジャンヌと上ったゲランドの城壁には長らく立ち寄っていない。階段で息が切れて仕方がないからだ。兄が死んでこれからだというのに…。

死が近い

暗い雰囲気の執務室のドアを叩き、おずおずと召使がやってきた。

「閣下に、お手紙でございます」

「なんだ! 高等法院のインチキ学者どもからか! そんなもの…」

モンフォールは手紙を奪って破き捨てようとしたが、召使は必死にそれを止めた。

「ち違います…! ナバラ王陛下、フィリップさまからのお手紙でございます!」

なに?とモンフォールは手を止める。確かに署名として”神の恩寵によるナバラ王にしてエヴルー伯フィリップ・ド・ナヴァール”とある。なぜナバラ王が、と慌ててモンフォールは手紙を読みだすと次第に彼は高笑いを始めた。

妻ジャンヌは夫がおかしくなったかと訝しんだが、モンフォールは嬉嬉として語り出す。

「ジャンヌ、うまい話しだぞ」

フィリップ3世
ナバラ王 
フランス王臣下としてエヴルー伯を兼ねる

その領地ナバラピレネー山間の小王国
エヴルー伯としてフランス王臣でもあった

フィリップ3世が手よこした手紙の内容はこうだった。どうやら彼は妻と仲がこじれているようで、女王を牢獄に閉じ込めたいと考えていた。そこでモンフォールに頼みがあると。彼女が今度ブルターニュを通るらしいからその時に捕縛して欲しい……そういうわけであった。

報酬として前金で30万リーヴル、成功の暁にはもう30万リーヴルを支払うと。

「しめて60万リーヴル! 伯領収入の十数年分だ!」

「驚いた、イングランド人傭兵2000を3年は雇える額だわ」

「そうだジャンヌ! 女王陛下には悪いがブルターニュのためだ」

モンフォールも淑女に武勲を捧げる騎士の一人。良心が痛まないわけではないが、これから姪の公位を奪おうという男なのだ。それにブルターニュ公軍4000を相手取るよりは、女王一人を攫う方がずっと楽な仕事。

早速モンフォールは了承の返事をしたため始めていた。

人さらいの依頼
無事成功し引き渡した

戦争の始まり

諸侯の支持。ナバラ女王誘拐による多額の資金。すべては揃った。

ちょうどこの頃、妻ジャンヌが大望の男子を産んでいる。ジャンヌによく似た利発そうな子だ。

嫡子誕生
父の名からアルテュールと名付ける

「私は私の戦いをしたわ」

産後の息も絶え絶えの声で、ジャンヌはモンフォールに告げた。そうだ。長らく男子に恵まれなかった我が家に、妻はこうして勝利をもたらしてくれた。

「任せてくれ後は俺の番だ」

主の年1343年のこと、モンフォールは兵をおこした。彼のブルターニュ公位を請求するためである。公国摂政であるブランシェ女公の母ジャンヌ・ド・サヴォワは、この請求を痛罵し逆賊モンフォールを討つため兵を集めた。

「屈しはしない」

公母ジャンヌ・ド・サヴォワ
幼いブランシェ女公に代わっておそらく書状を書いた

老骨に鞭うち、モンフォールはゲランド城を出た。モンフォール党の軍勢は公領首府のヴァンヌへ兵を進め、公軍は峠道でこれを迎え撃った。激戦になったがモンフォール党が破ってそのまま城を攻囲。落城せしめた。

ロシュフォール=アン=テールの戦い
ほぼ互角の軍勢だったが、騎士の数の差が出て勝利

ヴァンヌ占領

モンフォールにとって幸いだったのは、攻城戦のさなか幼いブランシェ女公を捕えたことであった。彼は公母と交渉し、ブランシェの所領をそのままにすることを条件に、ブルターニュ公位を譲りうけることになった。

幸運なブランシェ捕縛

和平

モンフォール伯、いや今や神の恩寵により正統な全ブルターニュの公であるジャン4世。彼を遮る者は最早この公国にいない。

見たか兄上よ。すべては思いのままだ。ここからだ、ここからどう公国を統べようか。

ブルターニュ公爵ジャン4世

だがその後すぐ彼は病がちになり、ベッドから起き上がることができない日が増えていった。妻のジャンヌも涙を目に浮かべるばかり。

泣くな、そなたはナントからブレストにかけて一番の女。そして今や一番の男の妻なのだ。そう口を動かそうにも、もう唇を開くこともできないようになっていた。

ジャン4世の死
継嗣はわずか1歳の一人息子・アルテュール
衰弱Traitが思いのほか早く効いた

主の年1344年、ジャン4世はそのまま眠るように帰天した。ブルターニュ公となり僅かひと月のことであったので、世人は彼を"三十日公"と呼んだ。

 

摂政ジャンヌ・ド・ダンピエールのこと に続く】

*1:リーヴルは当時のフランスの通貨。ゲーム内の1Goldを千リーヴルとしてこのAARでは表現することにします。

白貂の系譜

CK3 The Lion and the Lilies
1337年ブックマーク

Crusader Kings 3(Paradox Interactive社)は、中世ヨーロッパの貴族の政治的生活を題材としたシミュレーションゲームです。

本記事は当作の大型MODである The Lion and the Lilies(以下TLatL)を導入したプレイレポートになります。TLatLは1337年より始まる英仏百年戦争をメインテーマに据えており、バニラでは対応していない後期中世からプレイできるほか、極めてヒストリカルな設定と野心的なプロビ設計の持ち味のMODです。*1

今回のプレイでは1337年のブルターニュ公弟、ジャン・ド・モンフォールを選択しました。史実では彼の子孫はブルターニュ継承戦争を経てブルターニュ公となりましたが、このプレイではどうでしょうか。そして百年戦争は一体どう言った展開を見せるのでしょうか。

目次

ジャン三十日公のこと

摂政ジャンヌ・ド・ダンピエールのこと

アルテュール狼王のこと①

アルテュール狼王のこと②

プレイ環境

▪DLC :W&Wより前のすべて、ver1.9.2.1
▪MOD :The Lion and the Lilies/Nameplates/Invisible Opinion/Beautiful Portraits/Better CoA Designer
▪プレイ対象:ドルー=モンフォール家
▪開始年月日:1337年シナリオ
▪難易度 :Normal/Ironman mode

ジャン・ド・モンフォールとその家系について

ブルターニュ公の
白貂(アーミン)柄の紋章
清廉、高潔を意味する

かのフランス王家のカペー家の支流にドルー家という系統がありました。その更に分家筋がブルターニュ公位を得ます。これがブルターニュ系ドルー家です。

ジャン・ド・モンフォールは、ドルー家のブルターニュ公であるアルテュール2世の次男です。モンフォール=ラモーリー女伯であった母が死ぬとその伯位を継承したので、彼の家系はドルー=モンフォール家と呼ばれました。*2

彼の異母兄であるブルターニュ公ジャン3世はモンフォール伯を嫌い、彼を公国の継承ラインから外しました。ジャン3世が死ぬと、モンフォール伯と姪ジャンヌが継承をめぐって争います。これがブルターニュ継承戦争です。ブルターニュ継承戦争はイングランドとフランスの代理戦争の体をなして長期化(モンフォール伯がイングランド側、ジャンヌがフランス側)。最終的にはモンフォールの家系がブルターニュ公位を勝ち取り継承していきました。

彼の家系を通じ、第三勢力として混迷の英仏百年戦争シナリオを堪能しようというのが今回のプレイの趣旨です。

*1:例えばパリはパリらしく圧倒的に豊かになっています。またプロビについては例えばイル=ド=フランスなどを除き、基本的に一男爵領と一プロビとなっていてCK2を思わせる調整になっています。それに応じて直轄領の上限が大幅に上昇しており、例えば1337年ブックマークのイングランド王は100以上のプロビを直轄領にしています。またタイトルの名前などもこだわっていて、イングランドの公爵級タイトルは「Earl」表記になっていたりしているのも嬉しいポイント。

*2:つまりアルビジョワ十字軍や第二次バロン戦争で知られる、あのモンフォール家に女系で連なっています。

家一のこと③(1571年〜1593年)

右幕下、二条に動座し大阪城天下普請のこと

1571年ごろ

右大将は足利将軍家伝来の職である。それは武家の棟梁、朝家の守護者を意味していた。しかし当代の征夷大将軍である藤乗は四位参議にまでしか上らず、京から逐われて公事は滞った。

足利藤乗

代わって富樫家一が右大将に上ると、天下は静謐となり朝政に恙ない。禁裏もたびたび家一の庇護を頼みにしたので、家一もその意を汲んで京畿へと移ったのである。

なお加賀本国は嫡男の新介行家へ与えて、富樫の家督も譲ることとなった*1

大御所に
富樫右近衛大将藤原朝臣家一

嫡男・富樫家督
富樫新介行家

家一は関白・二条晴良の屋敷を気に入り、そこへ新御所を構えて邸宅とした。しかし洛中は守戦に難があるから、代わりに畿内で本城と呼べる城も構えることとなった。

そこで選ばれたのが、摂津国・大阪の地である。

大阪には家一の実祖父である蓮如が築いた大阪御堂とその寺内町が形成されており、それを基に城を普請するよう奉行の千又四郎通貞へと命じた。

摂津東成郡で文化遺産天守閣」の建造を開始

同時に城セツルメントの建築も
隣の西成郡には劣るが三つの交易路が通る

大阪は渡辺津から京へと至る淀川水運の要地。くわえて”石山”とも呼ばれる良石の産地であり、天下に号令する大城を普請するのに至上と思われた。無論、本願寺との縁も感じたゆえもある。

東成郡に「石切場」のプロヴィンス補正がある
さらに千通貞の評議会アクションで−75%の時間で建築が可能
13日で一つの建築物が建つ

普請奉行の千通貞は諸国から名工と呼ばれる者らを呼び寄せて、人足一万人をも動かした。昼夜工夫らが鉈や金具を振るい、山も谷も動くかのような賑わいであったという。

通貞の働きは家一の意に叶い、褒美として名物の茶碗や脇差を賜った。

「お任せあれ」

千通貞さすがの名奉行ぶり

さて、家一は河内の大名・畠山次郎夏義にも、この普請に加わるよう命じていた。だが夏義はのらりくらりと出仕することがない。

「波佐谷殿であればいざ知らず家一めに従う謂れなどあるか。この畠山、腐っても足利御一門!」

畠山次郎夏義
義就流畠山家当主
家一の従兄弟にもあたる
畠山家はかつては家一の上洛戦に協力した

這う這うの体で高屋城から突き返されてきた使者の姿に、家一は憤怒した。

「畠山次郎は思い違いをしておるな。いつまで同輩のつもりか」

こうして畠山御退治と相成った。伊勢攻めの最中であった畠山勢を、近江衆を率いた家一が捉える。

千種の戦い

殆ど合戦というべき合戦にはならなかった。古強者の夏義が采を振ったが、畠山勢は数刻と持ちこたえること能わない。右幕下直卒の中央が押し込んだかと思えば、攻めては家中一の伊庭修理が左翼から破ってみせる。

残る富樫勢は河内全土に攻め寄せて、守将の幾人かが城を枕に討ち死にした。

河内制圧

十市氏など畠山の被官国衆らが帰順し、夏義は河内を退き大和東端の宇陀へと押し込まれた。家一はこれを無理に追わず、河内をそのまま自身のものとした。

足利五郎出陣し、淀川に白旗散ること

天正2年(1574年)のこと、家一は二条新御所へと温井親宗ら北国衆の諸将を招き、能や猿楽などを鑑賞した。そののち自室に一人呼び入れたのは、温井将監親宗である。

温井親宗
人呼んで「かかれ将監」
能登国主にして一の老臣

「此度はお主を頼りにしたいことがある」

そう言って家一が持ち出したのは、畿内から西国にかけての兵棋図であった。軍を共に率いて早二十年。親宗はすぐさまその意図を理解する。

兵棋イベント*2

「いよいよ西国に攻め入られるのですな」

「左様、先陣を新介に任せるつもりだ。だが若年ゆえに至らぬことも多いと思う。そなたに副将を任せたいのだ。早速いくさの絵図を描きたい」

「無論お付き合い致す」

二人は夜通し兵棋を動かして策を練りあげる。家一はその出来に満足すると、諸国に文を送って兵を整えさせた。西国征伐の始まりである。

将軍タイトルをめぐる戦争

当時、富樫方と足利方との戦には三つの戦場が考えられた。信濃、伊勢、そして西国である。

まず信濃については、家一は特に兵を送らないことにした。彼の地には点々と小領の国衆がいるだけで、外征の起点にはなりえない。攻める必要もなければ守る必要もない。

信濃戦線

次に伊勢。ここには伊勢六角家や北畠家など、厳密に言えば細川与党ではない大名が割拠している。戦の流れが富樫に傾くか足利に傾くかで、去就が分かれるだろう。

それだけに早急に叩くべきだ。よって家一が自ら近江衆を率いて攻め入ることになった。

伊勢戦線

最後に西国。足利方の岩盤、両細川家の領国である。これには家一嫡男・新介行家が、温井親宗をはじめ北国衆を従えて先陣。伊勢が落ち着き次第、家一率いる近江衆もここに加わる。

こういった陣立てであった。

西国戦線

久方ぶりの大いくさに万全を期した家一であったが、合戦の実態はいささか物悲しいものであった。武門の長たる藤乗の窮地に藩屏たる大名らは動かず、細川ですらもほとんど兵を出さなかった。

諸城は陥ちるに任せられ、藤乗は備中で震えて篭るばかりで後詰は一向に現れない。

全く手応えなく落城していく

しかしただ一人、西国から打って出た男がいた。足利五郎平義である。

足利平義
五郎
将軍・藤乗の実弟
藤乗方の最後の名将と名高い

五郎平義は出陣を渋る兄・藤乗に縋って説き伏せた。

「亡き等持院様も京から逃げ出したのち、西国で兵を興して天下を平定したのです。我らに一滴でもあの方の血が流れているのであれば、同じことができましょう」

すると藤乗も折れて、平義に足利重代の家宝である甲冑・御小袖と源氏の白旗を授け、軍代として兵を率いさせることにした。

晴れて平義は奉公衆などを掻き集め、兵3千でもって大阪城を目指して西国を立つ。寡兵である。出陣に際し平義は将兵らを前に、涙ながら語りかけた。

「この五郎、柳営の家に生まれながら惜しくも上様の御役に立つことが凡そなかった。このままでは父祖にも後代にも立つ瀬がない。ものども、最後に私を男にしてくれんか」

諸士もこの言葉に思わず落涙し「お供せねばなるまい」と口々にしたという。

平義が摂津へ入り大阪城にまで迫ると、新介行家はとって返してこれを追った。両軍は淀川挟んで南北で対陣する。

榎並の戦い
左翼に平義の姿

しかし富樫勢は対岸で翻る源氏の白旗を目にして攻めあぐねた。あれは、武者にとって特別の意味を持つ。ただひとり新介だけが容赦する気色もなく、

「源平の合戦の折には、先陣を競って勇者らが宇治川を渡ったという。かの白旗を血に染めてみせようという者が陣中にいなくば、この新介がその勇名を頂こう」

と馬を川に入れる。すると慌てて諸将もこれに続いて、どっと淀川を渡り始めた。温井将監はそれを見て「まさに右幕下の御子」と感に入った様子であった。実際両軍がぶつかってみれば、数に勝る富樫方は危なげなく打ち勝った。

歴々1千余りが討ち死にすると、平義は武運の尽きを知って戦場を離れた。

その後は郎党数人だけを伴って伊勢にまで逃れたが、最後には富樫勢に追いつかれ、腹を切って果てた。誠に立派な武家の誉であり大層に哀れなものだ。

平義の死

新介は亡骸を丁重に京へと送り、足利累代の菩提寺で弔うように申し付けた。平義の葬列には富樫兵が数十騎も付き従ったので、まるで将軍が帰京したかのようであった。都人は足利五郎の武勇と、富樫新介の鷹揚さを盛んに噂したという。

家一も新介の武功を喜び「家督を奴にやったのは間違いではなかった」と温井将監にこぼし、副将の労を存分にねぎらった。

こうして藤乗方の反攻が潰えると、信濃も伊勢も家一へと帰服しはじめた。西国攻めも滞りない。

止まらない寝返り

大勢決す

藤乗は継戦を諦め和睦と相成った。実弟も亡くし、細川らにもほとんど見捨てられたようなものであったからだ。

新介行家に伴われて京へと赴いて家一と誓紙を交わすと、朝廷へと参内して将軍職を返上した。天正2年(1574年)のことである。

和平成る

その後日、家一は征夷大将軍職の推任を受ける。

しかし旧主である故行氏公を憚り家一は三度にわたって固辞した。それならばと内裏が鎮守府大将軍の職を示すと、今度は畏れながら就くこととなった。

征夷大将軍タイトルを鎮守府将軍号に変更する*3

御礼のために家一は参内して膨大な砂金と反物を献上し、帝よりかたじけなくも御盃を頂戴した。前代未聞の面目である。

富樫家一ついに将軍タイトル獲得
なお内大臣兼帯

対藤乗戦後の地図

足利将軍十三代は遂に終わり、名実ともに富樫の世の始まりの時であった。

内府、両細川を誅すること

天正3年(1575年)内大臣・家一は他の公卿らに諮って、惣無事令を勅令として諸国に発した。諸大名に私戦を禁じ、諸国境目は帝の沙汰で行うという旨である。

帝の沙汰とは、つまり家一の沙汰だ。

そして書状の「従わなくば御成敗がある」という一文は、受け取った諸大名らを驚愕させた。

惣無事令*4

後日、大阪城に多くの宴客が招かれて壮大な宴が開かれた。家一自らが各人に酒を振る舞う大層な盛り上がりだったという。しかしそこで一悶着が起こる。

暗殺騒ぎ

毒味役が家一の皿に毒が盛られていたのを見つけたのだ。すぐさま下手人があげられ、即刻打ち首となり三条河原に晒されることになった。

暗殺の関与者
取り締まりコマンドを有効にし忘れてた

諸国に騒擾の気がある。藤乗を下しその領国を平らげたとはいえ、その全てが心から家一に服したわけではない。むしろ外様を身の内に入れたことで、その気は増した。

すぐに旧藤乗方の諸将の仕置が急務である。

まず信濃国衆ら。彼らは先の戦で富樫方に転んで所領安堵となっていた。中でも北信の村上義益は帰順が早く、信濃平定に資したため北信濃半国を任せることとなった。

村上義益
右衛門権佐

次に伊勢。北伊勢の六角家は改易処分。南伊勢・志摩の北畠家もそれに準じた。伊勢の両大名への厳しい対応は先の暗殺騒ぎの疑いがかけられたからだ。

伊勢北畠家は抵抗し滅亡

最後に西国の両細川家である。細川氏が国主を務めるのは嫡流支流合わせて、阿波・讃岐・備中・備後。その傘下も含めれば西国四国の全てだ。伊勢のようには恐らくいかないだろう。

家一は、細川家の家宰である薬師寺元勝が反富樫の兵を挙げようとしているとして両細川家の改易を命じた。

薬師寺元勝
玄蕃頭 大和筒井城主
細川管領家当主・又十郎が幼年のため摂政となった
かつて家一に討たれた伊勢邸の謀主・薬師寺祐元の弟

細川又十郎
細川氏の幼き惣領

無論両者はこれに反発し、挙兵を余儀なくされた。天正4年(1576年)のことであった。

両細川家挙兵

両細川は一万を超える軍勢を仕立て山陽道から摂津へと入った。これを向かい打ったのは、麒麟児の風情の伊庭修理。矢田の地で両軍は激突し、富樫勢は細川勢を散々に打ち破った。

さらに細川勢は大和へ逃れるが、法隆寺門前の戦いで大勢は決する。

法隆寺の戦い

細川諸城は次々と開城し、細川又十郎と憲頼はそれぞれ捕縛。いずれも改易追放処分となって、旧領国には富樫庶家や譜代が入れられた。薬師寺元勝も同じく追放処分であった。

細川は足利将軍家の窮地には立たずじまいで、自らの衰亡に際してようやく動いたかと思えば呆気なく破れて家運を失ったわけだ。武家たる者この顛末を頂門の一針とすべきであろう。

捕らえられた細川又十郎
領国は全て没収され九州へ落ち延びていった

銀山城の変のこと

惣無事令より2年程経って、天正5年(1577年)のこと。束の間の平穏は、西国で破られることになった。防長を始め西国六ヵ国の太守・大内家は幼年の当主である大内彦次郎と、その家宰である安芸武田信朝の元にあった。

大内彦次郎
大内家当主

武田信朝
主馬首
安芸武田家当主

武田主馬首信朝は大内領国のうち三カ国を領有する事実上の西国の主だったが、決して主従の誓いに逆することなく、慈恵と節度でもって知られた天下の名臣。

しかし、武田主馬首が亡くなりその子である武田九郎信夏が継ぐと、幼主・彦次郎を居城・佐東銀山城で弑逆した。

これを銀山城の変という。

銀山城の変*5

武田信夏
安芸武田家新当主

哀れ殺された大内彦次郎

この主殺しを見た家一は、内裏に訴えて武田信夏を朝敵とした。まさに惣無事令違反であったためだ。*6信夏はこれを無視したので家一は兵を整え、西国へ打って出ることとなった。

朝敵請願*7

家一はこの遠征の全てを配下の将に任せることにした。自身は大阪城普請の大詰めにとりかかっていたからだ。

また、この時の家一は病に臥せりがちであったこともある。

家一の不調

理由は分かっていた。将軍としての重責。諸国平定の困憊。しかし何より…。

この頃温井親宗・大谷一考・稲葉永通が相次いで亡くなる

かつて苦楽を共にしてきた家臣らはもういない。天下を得ても分け合うことができねば何のためか。本願寺を追い出されて加賀に独り入って、幾度も敵と干戈を交え、寝る間にも望んだ天下。それがふと色あせて見えた。

そんな家一が二条新御所で臥せっていると、西国攻めの総大将であった嫡子・行家が訪れた。

「おう新介よ。よく帰った」

「父上、見事武田めを討ち果たしてまいりました!」

武田征伐はあっけなく完了

武田家の縁者はそのほとんどが討ち果たされた

「もはやこれで富樫の天下を疑う者もおりますまい!」

「そうか。大儀であった」

*8">

ついに日ノ本統一*9

ついでに家臣がほめてくれるイベントも

輝く行家の顔と対照的に、家一の疲労の色を隠せなかった。しかし、行家の後ろに二人の大男が丸くなって座していることに気が付く。

「その者らは?」

「いえ実は…」

「拙者の直答をお許し願いたい!大内新六郎弘隆と申す!この度、新介殿に陣借りして武田征伐に加わらせていただいた!一族の無念を晴らすことが叶い、恐悦至極でござる!」

大内弘隆
新六郎
大内氏滅亡後に京へ逃れてきた大内一門

「しかし、そこのご子息の家経殿と先陣争いを致した!喧嘩となりもうしたので御裁定いただきたい!」

すると、もう一人の大男。四郎家経が負けじと口を開く。

「お久しぶりでございます父上!この家経に何卒先陣の功を!」

富樫家経
四郎
家一の三男で槍捌きと美男子で知られた

「……父上、お恥ずかしながら私の沙汰ではどうにも収まらず」

と行家が申し訳なさそうに頭を下げる後ろで、大内弘隆と四郎家経は尚も言い争っており、挙句には取っ組み合いを始める。二人の偉丈夫が大人げなく袖を掴み合い冠を剥ぎ合う始末。

思わず、家一は大笑いしてしまった。

そんな家一に、行家も大内新六郎も四郎家経も驚いて不思議がり、喧嘩は気づけば止んでいた。すこし落ち着くと、家一は大内新六郎にも四郎家経にもその場で感状を書いてやって下がらせた。

「かのような者らがまだおるのであれば、まだ天下も捨てたものでもないな」

かつて温井将監と稲葉美濃介が言い争う騒がしい陣中を、家一は懐かしく思い出していた。

家一の回復

大阪城もこの頃完成

坂東兵乱未だ収まらず、右府両成敗のこと

「薄衣侍従、前へ」

「ははぁっ」

齢六十を越えようかという老人が、上に座す家一の前に出でて挨拶を始める。先に右大臣へ上った家一へ祝言を述べているようだが、北国訛りでうまく聞き取れない。

「まぁよい。其許は奥州は九戸の者だな。遠国よりよくぞ参った。饗応をそこの越智神太郎が行うから楽しめ」

上洛命令を諸国へ下す

安芸武田を下し体制を盤石とした家一は、未だ天下静謐及ばぬ遠国の諸大名らへ上洛命令を下した。奥州は九戸の薄衣清可や秋田の安藤季国、九州は三州太守・伊東祐紀に博多町衆の宗晴盛など。

いずれも多大なる勢力を誇った大大名たちだったが、今や富樫の権勢はそれを遥かにしのぐ。

王国級タイトル持ちの大名らが次々上洛に従った

しかし、まつろわぬ地もあった。関東八州である。

天正14年(1586年)の関東

坂東平野の戦乱が甚だしさを増し幾年が経っただろうか。親と子あるいは兄と弟が盛んに争い、民心は荒れて多くの田畑が草の茂るに任せたまま。

特に十余年前からは西に東に両雄が相別れて、およそ戦さが収まる様子がなかった。その両雄のうち一方の名を下野の宇都宮綱粛。そしてもう一方が相模の小山綱辰という。

宇都宮綱粛
弾正少弼 西関東の大大名
かつて関東をほぼ支配した老雄

小山綱辰
左衛門督 東関東の大名
宇都宮家から独立した関東随一の猛将

天正14年(1586年)、家一は両名に停戦令を出した。関東八州の国境は相論によって新ため、それは家一の沙汰によって決めるとの旨だ。

無論両者はこれを突っぱねた。これで退いては、何のために争ってきたのか。右府何するものぞの気概である。

「しかしそれは蛮勇というものだ。嫌いではないが」

家一は両名を朝敵とする。そして北は奥州から南は九州に至るまで、富樫の領国全てより、つまり日ノ本のほとんど全てより兵を出して関東へ向かった。

関東両成敗と呼ばれる大戦の始まりである。

天下統一への大仕上げ
同様の朝敵征伐戦争を宇都宮にも仕掛けている

戦略はこうだ。越後へ家一直卒の本隊3万5千。助攻として信濃に1万7千。それぞれが別個に上野に踏み入り、利根川を下るようにして小山・宇都宮勢を打ち払っていく。

関東侵攻

大館では宇都宮勢1万が抗したが、無人の野を行くように家一はこれを下していく。あげられた首級はおよそ8千。精強で知られた坂東武者も、歴戦の富樫勢に敵わない。

緒戦で出鼻をくじく

その後も小山勢と出会えばそれを切り、宇都宮勢と会えばそれを切る。無人の野を行き、草木を刈るが如し。

猛将・小山綱辰も形無し

宇都宮家本城たる宇都宮城、そして小山の鎌倉御所もすぐさま陥落。畿内より持ち込んだ大筒の前には籠城さえままならなかった。こうして家一が関東へ入ってわずか二か月で全ては決した。享徳の乱より数えれば百余年の坂東兵乱。されど治まる時はたったの二月である。

宇都宮綱粛は打ち取られ、小山綱辰は捕らわれ流罪となった。

全てを終え家一は、雪解けを待ち三国峠を経て北陸道から畿内へ戻ることになった。共に行くのは嫡男・行家。関東両成敗が大戦さになると意気込んでいた行家は、思いのほかの落着に肩透かしだったのか、欠伸をかみ殺している。

「退屈か新介」

「はっ…いえ滅相も」

「都に戻ったならば、この家一は太政大臣に上る。戦はこれで終いだが、泰平の世が始まろう。新介にはまだ仕事が残っておるのだ」

天下人の血脈を創始*10

太政大臣に上り位人臣を極める

先年右大将となった行家のことを、まだ家一は新介と呼んでいた。その呼び名を聞く度に行家は身が引き締まると共に、少し暖かい心地がする。

「退屈凌ぎに、昔話をして進ぜよう。富樫中興はこのような峠道より始まったのだ。長享の折に祖父、政親公は本願寺に加賀を追われ倶利伽羅峠を北に逃げたのだぞ」

「まさか。本願寺と言えば父上の生家ではありませぬか」

「ははは。なに三国峠は長い。聞かせてやろう我が父祖ら富樫累代のことを」

轡を並べる親子二騎。こんな時間はそうは残されていないだろう。新介行家は父の言葉を一つも逃すまいと、家一の老人語りにいつまでも耳を傾けていた。

 

〈完〉

 

天下統一

富樫家一
関東両成敗の6年後に薨去
死後「新八幡」の神号を下賜されて
武家の崇敬を集めたという

新将軍・富樫行家
男子がおらずその系譜は恐らく
弟の江戸新介家経に継がれるだろう

後代のこと

天下統一後も盆栽的に各国の領地を整理したり、譜代や親藩を配置したりして遊んでいました。本当は官位も整理して家格体系のようなものを作りたかったのですが、官職を思い通りには取ってくれず諦めました。

以下では主だった大名を紹介します。

家一死去時点での日本国内

まずは九州。

伊東之祐
日向宰相 日向藩主
所有国数だけでいえば日本随一の大大名
島津を抑えずっと南九州を支配していた家系です

越智家助
神太郎 豊前藩主
北九州は博多町衆の宗氏に支配されていたのですが改易
代わりに家一晩年から重用していた越智を譜代大名として入部させました

西国と四国。

大内弘隆
大内介 長門藩主
武田征伐で活躍し一時は断絶した大内家を復興
外様大名ですが九州攻めでも家一に重用されました

温井宗継
肥後守 備後藩主
温井将監親宗の嫡孫の譜代大名
はっきり言って無能ですが弟の宗算は優秀で幕閣にも起用

堀江伊景
大蔵権少輔 阿波藩主
堀江家は代々吏僚を輩出した家柄
伊景はその傍流でしたが有能だったので取り立てました

畿内

大谷一乗
太郎 大和藩主
家一の実兄の家系ということで親藩の筆頭格
一乗は行家と友人関係にあり政権を支えてくれるでしょう

千通貞
播磨守 堺藩主
長年家令職を務めあげた名建築家
奉行衆の筆頭人物ですがすでに老境

伊庭景貞
修理亮 坂本藩主
行家の義兄で軍事を預かる
家一の代から長らく仕える譜代筆頭

橋場親雅
源次郎 長浜藩主
橋場家は家一の叔父で誅殺された家友の家系
家友死後許され別家を立て多くの人材を輩出しました

富樫家孝
伊勢侍従 伊勢藩主
行家異母弟ですが仲は悪目
優秀ですがそれだけに警戒すべき家系

東海中部。

稲葉家通
伊勢守 美濃藩
義兄ですが仲は悪い
正直伊勢の富樫家孝と組んで何やらやらかしそう

富樫家持
若狭守 尾張藩
唯一の行家同母弟
伊勢の家孝らの抑えか

土岐頼章
駿河侍従 駿河藩主
土岐氏は減封に減封を重ね駿河国主に
改易にしなかったのは温情でしかない

北陸。

堀江家方
肥後守 越前藩主
義理の兄で各地の堀江氏の惣領格か
家一時代から行家を支えた名臣

関東。

富樫家経(改名して家以)
江戸新介 江戸藩主
実は家一最愛の息子で正直目に入れても痛くなかった
美形・筋骨隆々・瀟洒という花の慶次というか名古屋山三郎的スペック

稲葉通好
越中守 関宿藩
家経の付家老のイメージで関東の要地に配置した
稲葉家通の弟だがこちらの方が幕閣との関係はいい

伊庭頼貞
次郎 宇都宮藩主
伊庭氏庶流の出で同じく付家老

奥州。

薄衣清晴
左兵衛尉 九戸藩主
蝦夷地経営にいそしむ北の果ての大大名
奥州はほかに二人の大大名がおり仲が悪い

といった感じでした。他にもお気に入りの家系や人物がたくさんいるのですが(イベントポップアップする木下秀吉が気づけば仏門に入っていたので、家一晩年に進講役として仕えさせていたり…)語ればキリがないのでここまで。

*1:ゲーム的には、遷都コマンドは当分(あと300か月)使えなかったので加賀本国をまるまる息子に譲って無理やり京都へ首都移転しただけです。信長が畿内にいて信忠が尾張美濃にいた時代のイメージ

*2:ちなみにこのイベントは選択肢で結構成功率が違います。高所を全力で取るのが個人的おススメ。

*3:官位の方がもう取れなかったので、タイトル名を変える事で鎮守府大将軍を再現するという完全に趣味プレイ。

*4:将軍タイトルを獲得していて、かつ支配プロヴィンスが十分にあり法律技術が高いと法律タブから惣無事令を有効にできます。惣無事令を有効にすることで、のちのち諸大名に上洛を命令したり停戦を命令できたりします。基本的にNMIHの戦国時代における天下統一は将軍タイトル獲得⇒惣無事令⇒惣無事令違反を取り締まって諸大名を征伐⇒600プロビ支配で上洛命令がアンロックされる⇒全国の大名を臣従させる、というフローを辿ります。

*5:NMIHの簒奪コマンドは主君の威信が低い時摂政が行うことができます。威信を奪うコマンドもあるので、幼君が立って摂政が簒奪することはありがち。

*6:といいつつ、実際には惣無事令を出すことで可能になる「停戦命令」コマンドではなく、朝敵請願コマンドで朝敵指定しました。

*7:朝敵請願は天皇と有効度が一定あり、徳500で実行可能。朝敵となった大名は外交度が下がるだけでなく、朝敵征伐戦争に敗れると全ての領地を失います。

*8:支配下プロヴィンス数が600を超えると起きる日本統一イベント。これにより全国の勢力を臣従化できる「上洛命令」コマンドが使えるようになる。ついでに家臣がほめてくれて嬉しい。

*9:支配下プロヴィンス数が600を超えると起きる日本統一イベント。これにより全国の勢力を臣従化できる「上洛命令」コマンドが使えるようになる。

*10:天下統一イベントでアンロックされるイベント。おそらく状況次第で血脈の選択肢が変わるが、条件はあまり知らない…。

家一のこと②(1560年~1571年)

富樫三位北畿を平らげ、伊勢邸炎上すること

日が昇ってから沈むまで、政所執事たる伊勢家の京屋敷には訪れる人が絶えない。やれ荘園の境目争いであるとか真宗と法華の宗論であるとか、いずれも公儀への取次を求める者らである。

それは旧主・足利藤乗が京を逃れ、「公儀」が富樫擁する足利行氏となってからも変わらなかった。

伊勢保照
伊勢守 山城守護
政所執事として代々の室町殿の元で働いたが
時の将軍・足利藤乗が落ち延びると行氏公に仕えた

その日も伊勢守が訪客をさばいていると、珍しい者が顔を見せた。摂津守護代薬師寺祐元である。その表情は怒気を孕んでいた。

薬師寺祐元
讃岐守 摂津守護代
細川家に代々仕える内衆・薬師寺家の現当主であり
守護代として勤めていた

「伊勢殿お久しゅうございますな」

「これはこれは…お聞きしたところ、先だっての戦で薬師寺殿も富樫方に降ったとか」

「ええ、口惜しくも衆寡敵せず」

永禄5年(1562年)、富樫家一は摂津を攻めた。摂津国は細川管領家の領国であり、守護代薬師寺祐元が預かっていた。

これに対して細川管領家とその主たる将軍・足利藤乗は一兵たりとも後詰めを出さず、薬師寺祐元は孤立。あえなく降伏したのだ。

摂津侵攻
畿内の平定を目指していく

薬師寺殿、口惜しいとは滅多なことを申されるな。間者がどこにおるか…稲葉美濃介の責めは厳しいと聞きますぞ」

「思うことを申したまで。それに細川様も後詰を出されるおつもり自体はあったはず。丹波丹後のことさえなければ、この薬師寺讃州、きっと摂津を守り抜きました」

「やれやれ…」

摂津攻めの際、藤乗方は有効打が何ら打てなかった

細川管領家と将軍・足利藤乗が後詰を出さなかったのは、この時両丹州の去就に振り回されて摂津に手が回らなかったゆえであった。

富樫家一は摂津の侵攻に合わせて細川方へと調略を行なっており、丹波守護代・上原元家と丹後守護・一色義忠がこれに応えて寝返ったのである。

丹波と丹後調略
このタイミングで一気に北畿内の残余も回収する

「一色殿はまだしも、元を言えば上原など細川様の内衆ではないか! ……聞けば取次は本願寺が行ったとか」

「いや本願寺ではなく、一孝殿ですな」

聞かぬ名前に薬師寺祐元が首を傾げるので、伊勢は付け加えた。

「真如上人のお子で、富樫三位殿のご実兄。本願寺からはもうご出奔なされて、今は俗体の身で大谷太郎殿と称するとか」

大谷太郎一考
本願寺九世法主・真如の次男で家一の実兄
兄・承如とのライバル関係に注目!

一孝は兄の十世法主・承如と折り合いが悪く
法名を捨ててこの頃から弟に仕えた
親鸞の廟堂の地から大谷と名乗る*1

兄の出仕をこの上なく喜んだ家一は、老臣・堀江景規の死後空席となっていた右筆の職につけて、一孝もまた弟のこの計らいに応えて丹州調略を見事にやり遂げた。

摂津攻略と丹州調略により、家一は北畿内の平定を完遂させたのであった。

一孝の働き

摂津攻め後の富樫家

「伊勢殿、どうあれ富樫殿の専横は見ていられぬ。今は波佐谷様を奉じているが、いずれ将軍家を排するつもりやもしれぬぞ…」

「まさか…」

畿内王タイトルも晴れて獲得
いつでも将軍タイトル請求権ディシジョンを実行できる

「今日ここに来たのはそのためなのだ。今や京で真に幕臣と言えるのは伊勢殿だけだ。どうだ、共にあやつを追い落とさんか」

「ばかな…加賀一万騎にどうして抗えよう」

「富樫の家も一つではないのだ。越中介家益殿を知っておられるか。本来であれば富樫の家督を継いでいたはずの男。家益殿を担いで立てば加賀は割れて、畿内は我らのものよ」

「むう…」

富樫家益
先代親家猶子
家一にとって従弟でもあったが…
かつて謀殺された家友が宴に呼んだ男と言えば
覚えている人もいるだろうか

伊勢守は悩みに悩んでその日は返答もせず薬師寺を帰した。が、この陰謀を密告する気にもなれなかった。

しかし、伊勢邸から薬師寺が出てくるところを、見ていた者がいた。目付・稲葉美濃介の手であった。

永禄6年(1563年)の春、薬師寺祐元及び伊勢保照に謀反の疑いがかかり、これに両名はやむえず挙兵。これを予期していたかのように家一は京と摂津に兵を入れていた。

伊勢邸騒動
謀議は未然に察知されており
家一はすぐさま対処に動くことができた

伊勢邸は4千もの兵に囲まれ炎上し、両名はあえなく捕縛となった。薬師寺讃州の首は三条河原に晒されて伊勢守は流罪となった。また、時を同じくして北国では、富樫家益が処断されている。

薬師寺祐元の死

こうして山城摂津両国の闕所は全て富樫本家の直轄となり、畿内における家一の影響力は揺るがないものとなったのである。*2

和泉に新介初陣し、才人堺より来たること

家一は京に入る折、六条の本圀寺を宿所にすることが多かった。公方たる足利行氏の居所であったためだ。家一は義兄でもある行氏公を敬い、行氏公もそれに応えて両人は家族のように交わった。

そういうわけで、家一嫡男・千歳丸の元服の儀で行氏公が烏帽子親を務めたことも自然なことであった。

「千歳丸よ、そなたも父上に負けじと良き武人となるのだぞ」

「はっ。公方様にきっとよくお仕えさせていただきます」

永禄8年(1565年)のこと、千歳丸は公方より偏諱を受けて行家と名乗り、あるいは世人には富樫新介と呼ばれた。

富樫行家
富樫新介 家一嫡男
外交力に欠けるが、学者肌の足るを知る後継者

家一はこの元服の儀を盛大に行って京中を驚かせた。

家一の各領国より名だたる諸将が兵勢を連れて京を訪れて馬を並べ、それぞれ祝いの言葉を述べたという。富樫の家は今や北は越中、南は摂津とあまりにも広い。嫡男・新介行家の顔見世も兼ねて、家中の緩みを締めようという腹積もりもあったのだ。

この頃の家中では、以下のような者らが家一に重く用いられていた。

まずは温井左近将監親宗。

先代親家公の頃より仕える家中きっての老将。勇敢即断の侍大将で、竹を割ったような実直さの持ち主。能登一ヵ国を預かる北の守り。

次に稲葉美濃介永通。

家一の信頼厚く、石のように冷血だがそれが彼の公正さの証でもある。美濃の抑えであり長年目付を務める。

そして大谷太郎一考。

家一の実兄にして右筆。両丹州の取次で功を立てたことは、すでに書いた。

最後に伊庭修理亮景貞。

家一の近江平定後に従った、近江源氏佐々木氏の支流・伊庭家の若当主。麒麟児の風情があり、家一息女を娶って要衝・近江瀬田と坂本を任せられた。行家にとって義兄であり、家一は彼を行家の良き指南役になるよう頼みにした。

さて、家一はこうして京に入った軍勢でもって、北畿内に最後に残る藤乗方の領国・和泉へと攻め入ることにした。*3

行家の初陣も兼ねてである。

京を出ていく折、これを見物しようと都人で街道沿いは溢れた。諸将の中でも新介行家は、彼らの目を最も惹いた。

新介は揃いの朱色具足に身を包んだ騎馬八十騎ほどを従えていた。自らの騎乗は鬼葦毛。鞍の上敷は唐織物で雲形の文様は紅の金襴、太刀は金銀飾りである。この見事な若武者に、年頃の京女はみな嘆息したという。

この装いの全てが、かつて京随一の瀟洒で鳴らした家一の選んだものであったことは改めて言うまでもないことだ。

和泉侵攻

さて家一は諸将を率いて、和泉の各城を攻囲した。その数は1万余。和泉国は山陽細川家の本貫地であったが、とてもではないが藤乗方は抗うことはできなかった。

無人の野を行くように和泉国を包囲していく

和泉に位置する堺は、最後にこの攻囲を受けた。

畿内随一の大湊である堺は元来商人衆が自治していた。しかし、永正年間に豪商の千元利が細川家の奉公衆となり代官として支配して以来、千家が堺奉行職を継承してきた経緯がある。*4

家一の和泉侵攻の頃、堺奉行を務めていたのは千又三郎貞規であった。

千家
堺奉行職のほか因幡や近江の代官職を歴任するなど
両細川家に陰に日向に重用されていた

千貞規
又三郎 堺奉行
初代堺奉行千元利の子

堺攻めは難航したが、和泉の他の諸城はすでに落ちている。又三郎貞規は観念し、堺より退去する旨で講和の書状を書いて、富樫方の同族・近江千家当主の兵庫助貞兼へと送った。

これを家一も呑んで講和が成ったのである。

ついに北畿内の全域が支配下

こうして無事、新介行家の初陣は終わりを迎えた。残る問題は和泉の処置である。はじめ家一には堺を直轄地にする考えもあったが、これに助言したのが先の講和の折の立役者・兵庫助貞兼である。

「堺千家の出に又四郎通貞という、齢三十ほどの男がおりまする」

千通貞
又四郎
二代目堺奉行・千近江守貞雅の子
又三郎とはいとこの関係

「聞き及んでいる。聞けば堺でも評判で、町衆も舌を巻く商才の持ち主とか」

「その又四郎が富樫様に仕官を望んでおります。弁が立ち慎み深く、施政に天賦の才がございます。奉行に相応しいかと」

家一は兵庫助貞兼の言葉を聞いて「なるほど」と膝を打ち、仕官の話を受けて又四郎通貞に堺奉行職を任せることとした。

千通貞の登用

この抜擢に又四郎はうまく答えた。何かと騒ぎ好きの堺の町衆らを無事押さえつけて支配してみせたのだ。

家一は又四郎通貞の働きを見て、「和泉の国で値打ちのあるものは、一に千又四郎、二に堺湊である」と誉めたてて言ったという。

のちに又四郎通貞は先に挙げた重臣らと並び四名臣に数えられ、家宰職として重く用いられることになる。

この頃の評議会
天下統一に向けて優秀な人材が集まってきた

富樫三位の武威、三川を東へ渡ること

永禄11年(1568年)のこと、富樫家一は大きな決断に迫られていた。

この時すでに北畿内は全て富樫領国となり、残る藤乗方は西国を中心としていた。このまま西に進むべきかそれとも…。

決断を促したのは意外にも西国ではなく、南は伊賀国であった。

この頃の伊賀国は、義就流畠山家の裔で家一のいとこ・畠山夏義が支配していた。

畠山夏義
次郎 河内・大和・伊賀の三国主
義就流らしい猛将だが茶人としても名高い

義就流畠山家がかつて行氏方として上洛を手助けしたこともあり、今は明確な盟約がないとはいえ家一にとって夏義は潜在的な盟友であった。

その夏義が、美濃土岐家の陸奥守頼風に伊賀を攻められたのだ。更に藤乗方がこれに呼応して伊賀に攻め寄せた。

土岐頼風
陸奥守 東海の大大名
美濃土岐家は畿内の混乱に乗じて勢力を伸ばし
今川家や斯波家を下して東海道の雄となった

「これでは土岐は御公儀に弓を引いたも同然である!」

家一は激昂する。

公には、畠山夏義が行氏方というわけでも、土岐頼風が藤乗方というわけではない。しかし伊賀攻めの経緯を考えれば、頼風が行氏方に反感を持っていてもおかしくはない。伊賀が落ちれば、伊賀路を越えて上洛さえ考えられる。

そこで上申したのが稲葉美濃介永通である。

「家一様、この稲葉に兵をお任せください。美濃は我が庭。美濃衆には知己も多くございます。切り取って見せましょう」

「うむ、任せたぞ」

石の男の美濃介らしからぬ豪胆な物言いを聞き、家一は美濃攻めを決意した。

美濃攻め

稲葉永通を総大将とし、伊庭修理亮ら近江衆が与力として一万余りの軍勢がまずは伊賀に入った。夏義には言い含めてある。そして千賀地の地で、土岐一門衆の歴戦の将・頼堅率いる土岐勢8千をとらえた。

千賀地の戦い

頼堅は伊賀の剣俊な地勢を生かしてよく守った。左右の近江勢の果敢な攻めを見事にいなす。しかし、稲葉美濃介が中央から攻め寄って本陣を突き崩したのだ。

中央突破し勝利!

余勢を駆った稲葉美濃介は近江へと戻ってから美濃へ入る。そして揖斐川を越えて長良川を越えて、土岐家本城・川手城付近まで攻め上がった。

すると美濃衆は次々と帰服し、川手城は孤立し。決死の覚悟で攻囲を破ろうと土岐勢5千が打って出るが、そこはさすがの稲葉美濃介。難なく下す。

土岐家家臣が次々帰順

孤立する川手城と最後のむなしい抵抗…

こうして川手城はあえなく陥落し、たまらず土岐頼風は美濃を明け渡して駿河まで退いていった。伊賀千賀地の戦いよりわずか一年のこと。あまりにもあっけない勝利であった。

東海道一の土岐の領国を、いとも容易く稲葉美濃介は切り崩したのである。家一は美濃一ヵ国をそのまま稲葉に任せて、東国への抑えとした。

美濃攻め終結

流れの速きで知られた美濃の三川も、富樫の武威が渡ることを押しとどめることはできなかったのだ。まるで草木の一本に至るまでが富樫に靡いている様子であった。

波佐谷殿薨去し、家一右大将宣下のこと

藤乗方の勢力は年を重ねるごとに減じる一方である。

この頃になると家一は加賀尾山城か、京の二条富樫屋敷で政務を執ることが増えて、代わりに各方面の将に戦を任せるようになっていた。残る藤乗方の畿内領国である紀伊も、永禄12年(1569年)兄の大谷一考と近江勢に任せて攻め落とさせた。

紀伊攻め
なんの盛り上がりもなく終了

上洛から10年程で、丹後・丹波・摂津・和泉・紀伊・美濃の六ヵ国が富樫領国として新たに加わったことになる。

1570年時点での富樫領国
斜線は家一直轄地を示す
譜代や親族の一国持ちも増えてきたことがわかる

同時期の諸国
畿内では畠山夏義、中部では土岐頼風が目立つ
東国では小山家と宇都宮家が入り乱れて相争う
西国には足利藤乗がいまだにおり、その先に大内家

天下人と呼ぶにふさわしい実力を手にした

嫡男・行家の祝言紀伊攻めすぐ後の事である。正室として選ばれたのは、紀伊攻めの武功で紀伊一ヵ国が与えられた大谷一孝の息女鶴であった。祝言の儀は富樫家の本城たる加賀尾山の地で執り行われた。

 

広がる富樫家の血脈

婚儀が全てがつつがなく終わったころ、家一の耳にとある報せが京より伝わってきた。

行氏公、薨去の報せである。

 

波佐谷殿こと、足利行氏の死

家一と行氏は、かねてより政務でも顔を突き合わせる仲。御内書を行氏が幾枚も書き、家一が幾枚もそれに副状を書いた。一時は京の居所を共にさえした。無論行氏の体調が悪化していたのは知ってはいたが…。

その死を同じくして知った行家は瞠目する。

「私の元服の儀で、良くお仕えしたいと申し上げたばかりでしたのに…」

「人の生き死にばかりは、やむを得ん」

行氏には子がなかった。兄弟縁者もいない。つまり彼の死は、義視流足利家の断絶を意味する。家一は担ぐべき公方を喪ったのである。

家一は行家を加賀尾山に残して、すぐさま京へと馬を走らせた。これを機に藤乗方が京を目指すかもしれぬ。あるいは、これまでは行氏を奉じて自分に仕えていた大名連中の去就も案じなければならぬ。都は今頃混乱のさなかであろうか…。

しかし、京は驚く程に静謐であった。武家の棟梁たる行氏の死の直後とはとても思えない。町衆も武者も公家衆も平穏そのものであった。

いぶかしむ家一の迎えに、武家伝奏の近衛の手の者が訪れた。挨拶もほどほどに、家一に驚くべき言葉を告げる。

「富樫三位殿、御昇進のお話がございます」

「こんな折に何事であるか!」

「この折だからこそでございます。御武家は東西に分かれ、西の藤乗公は京を逃げて、東の波佐谷殿ご薨去。朝政の守護は今や無きも同然」

「内裏は私に何がお望みか」

「右大将に就かれよ、と。清涼殿でお待ちしております」

「なんと…!」

もはや担ぐべき主など家一には必要ないことに、そして彼自身が公儀たりうることに、人も時代も既に気が付いていたのである。

元亀2年(1571年)、家一が齢45の頃のことであった。

ついに、右近衛大将宣下
同時に幕府請求権のディシジョンを行った*5

【家一のこと③(1571年~1593年)につづく】

*1:実兄が実家で不遇を買っていたので保護してしまいました。名字については、ゲーム的には何の根拠もありません。俗体で武士に仕えるとなったらさすがに家名が必要だろうと思ってつい…。とりあえず史実の本願寺法主が後年に名乗った大谷から取りました。

*2:山城国摂津国は極めて豊かなのでいずれ半直轄化しようと思っていました。本当のところゲーム的には異教理由でタイトル剥奪できたのですが、さすがに風情がないなと思って難癖つける機会をずっと伺っていました。

*3:このタイミングで和泉侵攻なんかして、将軍タイトル請求戦争をしない理由は三つ。①将軍家やそれを支える細川家は勢力的にまだまだ健在である②大義名分的には富樫家は行氏を将軍につけるために上洛したはず③将軍タイトル請求戦争で勝つと家一が将軍タイトルの持ち主になってしまう。史実の織田家くらいには状況を整えてから将軍タイトルが欲しいのです(ちなみにNMIH上で信長が将軍タイトルを得るのは足利義昭を追放して右近衛大将になったタイミングだった…と思う確か)。つまり、脳内補完ができなかったためです。

*4:この千家は足利義政同朋衆であった千阿弥から始まる家系で、いわゆる千利休の一族です。史実では里見氏支流を名乗りましたが、この世界では実際に武士化した様子。ゲーム的に言えば、元々は共和国タイトルだった堺を男爵級封臣だった千元利が簒奪。のちに細川家に臣従したという流れです。

*5:行氏の死&畿内のほぼ平定で、まぁさすがに良いだろうということで幕府請求権を獲得しました。右大将就任と同時にしたのは、ただの趣味でもちろんゲーム的な意味はありません。