富樫三位北畿を平らげ、伊勢邸炎上すること
日が昇ってから沈むまで、政所執事たる伊勢家の京屋敷には訪れる人が絶えない。やれ荘園の境目争いであるとか真宗と法華の宗論であるとか、いずれも公儀への取次を求める者らである。
それは旧主・足利藤乗が京を逃れ、「公儀」が富樫擁する足利行氏となってからも変わらなかった。
その日も伊勢守が訪客をさばいていると、珍しい者が顔を見せた。摂津守護代・薬師寺祐元である。その表情は怒気を孕んでいた。
「伊勢殿お久しゅうございますな」
「これはこれは…お聞きしたところ、先だっての戦で薬師寺殿も富樫方に降ったとか」
「ええ、口惜しくも衆寡敵せず」
永禄5年(1562年)、富樫家一は摂津を攻めた。摂津国は細川管領家の領国であり、守護代の薬師寺祐元が預かっていた。
これに対して細川管領家とその主たる将軍・足利藤乗は一兵たりとも後詰めを出さず、薬師寺祐元は孤立。あえなく降伏したのだ。
「薬師寺殿、口惜しいとは滅多なことを申されるな。間者がどこにおるか…稲葉美濃介の責めは厳しいと聞きますぞ」
「思うことを申したまで。それに細川様も後詰を出されるおつもり自体はあったはず。丹波丹後のことさえなければ、この薬師寺讃州、きっと摂津を守り抜きました」
「やれやれ…」
細川管領家と将軍・足利藤乗が後詰を出さなかったのは、この時両丹州の去就に振り回されて摂津に手が回らなかったゆえであった。
富樫家一は摂津の侵攻に合わせて細川方へと調略を行なっており、丹波守護代・上原元家と丹後守護・一色義忠がこれに応えて寝返ったのである。
「一色殿はまだしも、元を言えば上原など細川様の内衆ではないか! ……聞けば取次は本願寺が行ったとか」
「いや本願寺ではなく、一孝殿ですな」
聞かぬ名前に薬師寺祐元が首を傾げるので、伊勢は付け加えた。
「真如上人のお子で、富樫三位殿のご実兄。本願寺からはもうご出奔なされて、今は俗体の身で大谷太郎殿と称するとか」
兄の出仕をこの上なく喜んだ家一は、老臣・堀江景規の死後空席となっていた右筆の職につけて、一孝もまた弟のこの計らいに応えて丹州調略を見事にやり遂げた。
摂津攻略と丹州調略により、家一は北畿内の平定を完遂させたのであった。
「伊勢殿、どうあれ富樫殿の専横は見ていられぬ。今は波佐谷様を奉じているが、いずれ将軍家を排するつもりやもしれぬぞ…」
「まさか…」
「今日ここに来たのはそのためなのだ。今や京で真に幕臣と言えるのは伊勢殿だけだ。どうだ、共にあやつを追い落とさんか」
「ばかな…加賀一万騎にどうして抗えよう」
「富樫の家も一つではないのだ。越中介家益殿を知っておられるか。本来であれば富樫の家督を継いでいたはずの男。家益殿を担いで立てば加賀は割れて、畿内は我らのものよ」
「むう…」
伊勢守は悩みに悩んでその日は返答もせず薬師寺を帰した。が、この陰謀を密告する気にもなれなかった。
しかし、伊勢邸から薬師寺が出てくるところを、見ていた者がいた。目付・稲葉美濃介の手であった。
永禄6年(1563年)の春、薬師寺祐元及び伊勢保照に謀反の疑いがかかり、これに両名はやむえず挙兵。これを予期していたかのように家一は京と摂津に兵を入れていた。
伊勢邸は4千もの兵に囲まれ炎上し、両名はあえなく捕縛となった。薬師寺讃州の首は三条河原に晒されて伊勢守は流罪となった。また、時を同じくして北国では、富樫家益が処断されている。
こうして山城摂津両国の闕所は全て富樫本家の直轄となり、畿内における家一の影響力は揺るがないものとなったのである。*2
和泉に新介初陣し、才人堺より来たること
家一は京に入る折、六条の本圀寺を宿所にすることが多かった。公方たる足利行氏の居所であったためだ。家一は義兄でもある行氏公を敬い、行氏公もそれに応えて両人は家族のように交わった。
そういうわけで、家一嫡男・千歳丸の元服の儀で行氏公が烏帽子親を務めたことも自然なことであった。
「千歳丸よ、そなたも父上に負けじと良き武人となるのだぞ」
「はっ。公方様にきっとよくお仕えさせていただきます」
永禄8年(1565年)のこと、千歳丸は公方より偏諱を受けて行家と名乗り、あるいは世人には富樫新介と呼ばれた。
家一はこの元服の儀を盛大に行って京中を驚かせた。
家一の各領国より名だたる諸将が兵勢を連れて京を訪れて馬を並べ、それぞれ祝いの言葉を述べたという。富樫の家は今や北は越中、南は摂津とあまりにも広い。嫡男・新介行家の顔見世も兼ねて、家中の緩みを締めようという腹積もりもあったのだ。
この頃の家中では、以下のような者らが家一に重く用いられていた。
まずは温井左近将監親宗。
先代親家公の頃より仕える家中きっての老将。勇敢即断の侍大将で、竹を割ったような実直さの持ち主。能登一ヵ国を預かる北の守り。
次に稲葉美濃介永通。
家一の信頼厚く、石のように冷血だがそれが彼の公正さの証でもある。美濃の抑えであり長年目付を務める。
そして大谷太郎一考。
家一の実兄にして右筆。両丹州の取次で功を立てたことは、すでに書いた。
最後に伊庭修理亮景貞。
家一の近江平定後に従った、近江源氏佐々木氏の支流・伊庭家の若当主。麒麟児の風情があり、家一息女を娶って要衝・近江瀬田と坂本を任せられた。行家にとって義兄であり、家一は彼を行家の良き指南役になるよう頼みにした。
さて、家一はこうして京に入った軍勢でもって、北畿内に最後に残る藤乗方の領国・和泉へと攻め入ることにした。*3
行家の初陣も兼ねてである。
京を出ていく折、これを見物しようと都人で街道沿いは溢れた。諸将の中でも新介行家は、彼らの目を最も惹いた。
新介は揃いの朱色具足に身を包んだ騎馬八十騎ほどを従えていた。自らの騎乗は鬼葦毛。鞍の上敷は唐織物で雲形の文様は紅の金襴、太刀は金銀飾りである。この見事な若武者に、年頃の京女はみな嘆息したという。
この装いの全てが、かつて京随一の瀟洒で鳴らした家一の選んだものであったことは改めて言うまでもないことだ。
さて家一は諸将を率いて、和泉の各城を攻囲した。その数は1万余。和泉国は山陽細川家の本貫地であったが、とてもではないが藤乗方は抗うことはできなかった。
和泉に位置する堺は、最後にこの攻囲を受けた。
畿内随一の大湊である堺は元来商人衆が自治していた。しかし、永正年間に豪商の千元利が細川家の奉公衆となり代官として支配して以来、千家が堺奉行職を継承してきた経緯がある。*4
家一の和泉侵攻の頃、堺奉行を務めていたのは千又三郎貞規であった。
堺攻めは難航したが、和泉の他の諸城はすでに落ちている。又三郎貞規は観念し、堺より退去する旨で講和の書状を書いて、富樫方の同族・近江千家当主の兵庫助貞兼へと送った。
これを家一も呑んで講和が成ったのである。
こうして無事、新介行家の初陣は終わりを迎えた。残る問題は和泉の処置である。はじめ家一には堺を直轄地にする考えもあったが、これに助言したのが先の講和の折の立役者・兵庫助貞兼である。
「堺千家の出に又四郎通貞という、齢三十ほどの男がおりまする」
「聞き及んでいる。聞けば堺でも評判で、町衆も舌を巻く商才の持ち主とか」
「その又四郎が富樫様に仕官を望んでおります。弁が立ち慎み深く、施政に天賦の才がございます。奉行に相応しいかと」
家一は兵庫助貞兼の言葉を聞いて「なるほど」と膝を打ち、仕官の話を受けて又四郎通貞に堺奉行職を任せることとした。
この抜擢に又四郎はうまく答えた。何かと騒ぎ好きの堺の町衆らを無事押さえつけて支配してみせたのだ。
家一は又四郎通貞の働きを見て、「和泉の国で値打ちのあるものは、一に千又四郎、二に堺湊である」と誉めたてて言ったという。
のちに又四郎通貞は先に挙げた重臣らと並び四名臣に数えられ、家宰職として重く用いられることになる。
富樫三位の武威、三川を東へ渡ること
永禄11年(1568年)のこと、富樫家一は大きな決断に迫られていた。
この時すでに北畿内は全て富樫領国となり、残る藤乗方は西国を中心としていた。このまま西に進むべきかそれとも…。
決断を促したのは意外にも西国ではなく、南は伊賀国であった。
この頃の伊賀国は、義就流畠山家の裔で家一のいとこ・畠山夏義が支配していた。
義就流畠山家がかつて行氏方として上洛を手助けしたこともあり、今は明確な盟約がないとはいえ家一にとって夏義は潜在的な盟友であった。
その夏義が、美濃土岐家の陸奥守頼風に伊賀を攻められたのだ。更に藤乗方がこれに呼応して伊賀に攻め寄せた。
「これでは土岐は御公儀に弓を引いたも同然である!」
家一は激昂する。
公には、畠山夏義が行氏方というわけでも、土岐頼風が藤乗方というわけではない。しかし伊賀攻めの経緯を考えれば、頼風が行氏方に反感を持っていてもおかしくはない。伊賀が落ちれば、伊賀路を越えて上洛さえ考えられる。
そこで上申したのが稲葉美濃介永通である。
「家一様、この稲葉に兵をお任せください。美濃は我が庭。美濃衆には知己も多くございます。切り取って見せましょう」
「うむ、任せたぞ」
石の男の美濃介らしからぬ豪胆な物言いを聞き、家一は美濃攻めを決意した。
稲葉永通を総大将とし、伊庭修理亮ら近江衆が与力として一万余りの軍勢がまずは伊賀に入った。夏義には言い含めてある。そして千賀地の地で、土岐一門衆の歴戦の将・頼堅率いる土岐勢8千をとらえた。
頼堅は伊賀の剣俊な地勢を生かしてよく守った。左右の近江勢の果敢な攻めを見事にいなす。しかし、稲葉美濃介が中央から攻め寄って本陣を突き崩したのだ。
余勢を駆った稲葉美濃介は近江へと戻ってから美濃へ入る。そして揖斐川を越えて長良川を越えて、土岐家本城・川手城付近まで攻め上がった。
すると美濃衆は次々と帰服し、川手城は孤立し。決死の覚悟で攻囲を破ろうと土岐勢5千が打って出るが、そこはさすがの稲葉美濃介。難なく下す。
こうして川手城はあえなく陥落し、たまらず土岐頼風は美濃を明け渡して駿河まで退いていった。伊賀千賀地の戦いよりわずか一年のこと。あまりにもあっけない勝利であった。
東海道一の土岐の領国を、いとも容易く稲葉美濃介は切り崩したのである。家一は美濃一ヵ国をそのまま稲葉に任せて、東国への抑えとした。
流れの速きで知られた美濃の三川も、富樫の武威が渡ることを押しとどめることはできなかったのだ。まるで草木の一本に至るまでが富樫に靡いている様子であった。
波佐谷殿薨去し、家一右大将宣下のこと
藤乗方の勢力は年を重ねるごとに減じる一方である。
この頃になると家一は加賀尾山城か、京の二条富樫屋敷で政務を執ることが増えて、代わりに各方面の将に戦を任せるようになっていた。残る藤乗方の畿内領国である紀伊も、永禄12年(1569年)兄の大谷一考と近江勢に任せて攻め落とさせた。
上洛から10年程で、丹後・丹波・摂津・和泉・紀伊・美濃の六ヵ国が富樫領国として新たに加わったことになる。
嫡男・行家の祝言は紀伊攻めすぐ後の事である。正室として選ばれたのは、紀伊攻めの武功で紀伊一ヵ国が与えられた大谷一孝の息女鶴であった。祝言の儀は富樫家の本城たる加賀尾山の地で執り行われた。
婚儀が全てがつつがなく終わったころ、家一の耳にとある報せが京より伝わってきた。
行氏公、薨去の報せである。
家一と行氏は、かねてより政務でも顔を突き合わせる仲。御内書を行氏が幾枚も書き、家一が幾枚もそれに副状を書いた。一時は京の居所を共にさえした。無論行氏の体調が悪化していたのは知ってはいたが…。
その死を同じくして知った行家は瞠目する。
「私の元服の儀で、良くお仕えしたいと申し上げたばかりでしたのに…」
「人の生き死にばかりは、やむを得ん」
行氏には子がなかった。兄弟縁者もいない。つまり彼の死は、義視流足利家の断絶を意味する。家一は担ぐべき公方を喪ったのである。
家一は行家を加賀尾山に残して、すぐさま京へと馬を走らせた。これを機に藤乗方が京を目指すかもしれぬ。あるいは、これまでは行氏を奉じて自分に仕えていた大名連中の去就も案じなければならぬ。都は今頃混乱のさなかであろうか…。
しかし、京は驚く程に静謐であった。武家の棟梁たる行氏の死の直後とはとても思えない。町衆も武者も公家衆も平穏そのものであった。
いぶかしむ家一の迎えに、武家伝奏の近衛の手の者が訪れた。挨拶もほどほどに、家一に驚くべき言葉を告げる。
「富樫三位殿、御昇進のお話がございます」
「こんな折に何事であるか!」
「この折だからこそでございます。御武家は東西に分かれ、西の藤乗公は京を逃げて、東の波佐谷殿ご薨去。朝政の守護は今や無きも同然」
「内裏は私に何がお望みか」
「右大将に就かれよ、と。清涼殿でお待ちしております」
「なんと…!」
もはや担ぐべき主など家一には必要ないことに、そして彼自身が公儀たりうることに、人も時代も既に気が付いていたのである。
元亀2年(1571年)、家一が齢45の頃のことであった。
*1:実兄が実家で不遇を買っていたので保護してしまいました。名字については、ゲーム的には何の根拠もありません。俗体で武士に仕えるとなったらさすがに家名が必要だろうと思ってつい…。とりあえず史実の本願寺法主が後年に名乗った大谷から取りました。
*2:山城国と摂津国は極めて豊かなのでいずれ半直轄化しようと思っていました。本当のところゲーム的には異教理由でタイトル剥奪できたのですが、さすがに風情がないなと思って難癖つける機会をずっと伺っていました。
*3:このタイミングで和泉侵攻なんかして、将軍タイトル請求戦争をしない理由は三つ。①将軍家やそれを支える細川家は勢力的にまだまだ健在である②大義名分的には富樫家は行氏を将軍につけるために上洛したはず③将軍タイトル請求戦争で勝つと家一が将軍タイトルの持ち主になってしまう。史実の織田家くらいには状況を整えてから将軍タイトルが欲しいのです(ちなみにNMIH上で信長が将軍タイトルを得るのは足利義昭を追放して右近衛大将になったタイミングだった…と思う確か)。つまり、脳内補完ができなかったためです。
*4:この千家は足利義政の同朋衆であった千阿弥から始まる家系で、いわゆる千利休の一族です。史実では里見氏支流を名乗りましたが、この世界では実際に武士化した様子。ゲーム的に言えば、元々は共和国タイトルだった堺を男爵級封臣だった千元利が簒奪。のちに細川家に臣従したという流れです。
*5:行氏の死&畿内のほぼ平定で、まぁさすがに良いだろうということで幕府請求権を獲得しました。右大将就任と同時にしたのは、ただの趣味でもちろんゲーム的な意味はありません。