尾山新府普請のこと
奉行に率いられた雑役夫が、巨石を心棒で担ぎ上げ運んでゆく。戸室山から切り出された良石はノミで美しく整えられ、日差しに青白く光っていた。
「エイ!オー!エイ!オー!」
声を上げる度に、男たちの筋肉が力強くしなる。
家一は、担ぎ役らに交じって自らも汗を流していた。身の丈六尺余り、力量十人力の家一の剛力に人々が驚嘆の声を上げる。
家一が自ら汗を流しているのは、この尾山新府の普請に家一自身が力を入れていると諸将に示すためだ。大げさにでも、時には将自らが動かねば臣下が付いていかないこともある。
これらの運び出された石は、すべて尾山城の石垣に用いられることになっていた。浅野川と犀川に挟まれた小立野台地の先端部であるこの地を、家一は要衝と見て新たな政庁に選んだのだ。
いずれここには武家屋敷が立ち並び領国の要となるだろう。その目的のためには、家一は手段を選ばぬ男であった。
家一が木陰で体を休めて汗を拭っているところに声をかけてきたのは、叔父の富樫四郎家友であった。
「普請は順調なようで重畳ですな」
家友は笑顔を向けてつづけた。
「宴でもしませぬか、実を言うと家益も呼んでおります」
もともと家友は家一と因縁浅からぬ男だ。かつては家一と家督継承を相争って敗れたいきさつがある。今でこそ家一が当主となったが、これを簒奪と噂する者もいた。思わず近習らの顔はこわばる。
しかし家一は二つ返事でこれを受けた。
「叔父上、ぜひお願いしたい。我が屋敷へと招待しよう」
宴は思いのほか朗らかな雰囲気で進んだ。はじめは酒が進まぬ様子であった者達も、いつしか話に花を咲かせていた。そんな中で家友はポツリと声を漏らす。
「兄の親家は、私を嫌っていたのだと思うこともあった。だから家を継がせたくないのだと。所詮、腹違いかと恨むことさえあった。
しかし今では…ただ私心なく富樫のために家一殿を選んだのだと考えるようになったのだ」
これは他意のない言葉のように聞こえた。家友の心根の実直さ優しさが大いに現れていた。
家一は微笑む。
「義父上は生前、家友を実の叔父と思え、家益らを実の兄弟と思え、富樫を生家と思えとよく仰っておりました」
「うむ…私も実の甥にそうするように仕えたいものだ」
「如何にも」
「さて…時に家一よ、かねてより案じていたがお主は気位が高い。しかし士大夫たる気位と慢心を取り違えてはならぬのだぞ」
「いや!早速叔父上に叱られてしまいましたな」
「はっはっは」
一同が声を上げて笑う。こうして宴は朗らかなまま終わった。
家友を屋敷から送り出すと、家一は外で警固役を務めていた稲葉永通を呼び出した。
まだ青年と言っていい歳ごろだが、口は髭を蓄えて真一文字。内面の厳格さを思わせる眼光が鋭い。静かな、石のような男である。
その頃には家一からもすっかりと笑みは失せていた。
「六郎、首尾はどうか」
永通は声を潜めて答える。
「すべて抜かりなく。射手はもう位置についております」
「しかし、よろしかったのですか?」
「構わん。仮に叔父上に叛意がなくとも、その子その孫がどうなるかはわからんからな。すくなくとも彼が今死ねば富樫の家は十年は割れぬ」
数刻後、凶手にかかり家友は死んだ。射手は一向宗門徒の手の者だとか能登の地侍だとか様々な風説が流れたが、結局家一によるものだと確信できた者はいなかった。
家一はまさに手段を選ばぬ男だった。
天文法難に、富樫介上洛すること
天文19年(1550年)、京でおかしな風聞が流れた。
本願寺門徒が富樫家一の軍勢を借りて入京するというものだ。この時の都では町衆らを主に法華宗が力を持っており、この空説は彼らに甚だしい敵意を引き起こした。
結果、時の管領・細川氏久と結んで、山科本願寺の焼き討ちに向かう事態となったのである。
本願寺法主・真如は独力でこれに立ち向かうも、細川氏久の軍勢は一万を超えて衆寡敵せず、栄華を誇った山科の地は焼き落ちようとしていた。
家一はすぐさまこれを救うべく軍勢を率いて京へと上ることとした。
臣下にはこれを驚く声もあった。もとより家一は実父・真如と義絶の仲であり、それゆえ富樫の養嗣子となった来歴があったからだ。
生家への愛惜の念があったのだと言う人もいれば、兵を送らねば加賀の門徒らにも申し分が立たぬからだと言う人もいた。
いずれにせよ、家一は雪に鍛えられた二万騎でもって、細川勢と伏見の地で向かい合った。
家一の初陣である。
この合戦で家一は見事な大将ぶりを見せる。本願寺を攻囲する細川勢を周到に取り囲み、老練さで知られた氏久を破った。山科の地を守り通したのだ。
これには家一を坊主だ都人だと日頃侮っていた輩共も鼻をあかすことになった。
戦が終わると、家一は山科の御堂で実父・真如と十余年ぶりに顔を合わせることになった。だがこの頃には真如は病と老いで臥せっており、言葉を交わすこともできなかった。
家一はその様子を目にすると、すぐさま京を経って加賀へ戻った。「義絶を解いていただくことも、もう叶わぬか」そう声をこぼしたという。
江北で干戈交わり、北国動乱すること
この伏見の戦いで自信を得た家一は、今は亡き義父・親家の遺志を継ぐべく動き出した。つまり、波佐谷公方を擁して京に上り天下に号令することである。*2
天文20年(1551年)のこと、家一は再び京に上るため諸将を伴って加賀を出る。上洛の途上にある近江国は管領細川家の領国となっており、兵を以てこれを抑えることとした。*3
無論、幕府軍は迎え撃つべく富樫領国へと逆侵攻をかけた。美濃市橋で両者はひとまずぶつかり、家一は難なくこれを下す。
しかし、揖斐川を挟んで二度目の対陣となると様子が変わる。幕府軍を率いたのは、山陽細川家当主の相模守義晴。
若さゆえの采配か。家一はこれを渡河して攻撃してしまう。
富樫勢は攻めあぐねて総崩れ。家一の側近中の側近であった稲葉永通の居城・美濃揖斐城が落城することになったのである。
この事態に、加賀で留守役を務めていた永通が家一の本陣へ訪れた。
永通を前にして、家一は叔父・家友の言葉を繰り返した。
「気位の高さと慢心は違う、叔父上が生きておられたらまた叱られるな」
「……」
平素は偉丈夫として知られ堂々とした家一が、すっかりと小さくなっているように見えた。
「すまぬ永通、揖斐はきっと取り返すゆえ」
「殿、私はそんなことを申しに参ったわけではございませぬ。美濃の押しあいには構いなさるな」
これには本陣の者どもは家一含め皆驚く。
「加賀につながる越前ではなく美濃を攻めるのは、京方が尻込みをしている証左! むしろ我が方は近江へ攻め込むべきですぞ」
「……永通の申す通りだ」
再び家一の瞳に気力が宿ってきていた。
とはいえ戦は家一の初めの思惑を超え長引いていた。そんな天文23年(1554年)のこと、再び永通が報を携えて近江へやってきた。
「京方の勢いが留まる様子がございません。美濃へ再度送ってきた兵はおよそ一万」
またか…と家一はため息をつく。年を重ねるほど富樫の兵は減る一方だが、幕府軍は逆だ。
このままでは近江を保つどころか越前、ひいては加賀すら危うい。
「さらに…申し上げにくいのですが、越中守護代の椎名胤照殿がご謀反。さらに軍奉行の温井親宗殿も同心の由。長年の戦に耐えられぬと…」
「馬鹿者どもが!」
越中の諸将の一部この兵乱に加わった。これでは上洛どころではない。
椎名にせよ温井にせよ、親家に取り立てられ北陸平定に尽力した者達だ。一世代以上上の家老格であり、かつての家友派であった彼らは、養嗣子に過ぎず強権に振る舞う家一を面白く思っていなかった。
そこに近江攻めの不調が響いたというわけだ。
南北で富樫勢は挟まれ、まさに必死の形勢に思えた。
続けて言葉を発しようとする永通を置いて、家一はすぐさま陣を飛び出した。
「どちらへ!」
「尾山へ戻る、ついてこれる者だけついてまいれ!」
小姓馬廻数人だけを伴って、家一は加賀へ馬を走らせた。尾山へとたどり着くと、領国各地の真宗御堂へと早馬を出した。
被官らは兵をこれ以上は出せない。直轄の兵も削れ切っている。そこで門徒の軍勢を使おうというわけであった。
400貫もの金が支払われると門徒たちはすぐに応え、甲冑姿で尾山に集った。*4かつては富樫家を苦しめた一揆勢だ。加賀越中合わせて1万を超える数だった。これに富樫勢が加われば2万。幕府軍にも十分伍する。
家一はまずは叛徒に対処すべく越中へ向かった。千久里で富樫勢2万と椎名・温井勢7千がぶつかり、見事に家一は敵を破った。
家一は謀反者たちを意外にも許した。首謀した椎名胤照こそ蟄居処分としたが、温井親宗は許して再び軍奉行として用いた。
そのまま家一は、京方が攻める越前敦賀へとむかった。京方1万2千は敦賀の狭隘な浜に陣取っており、美濃で家一を破った細川義晴がこれを率いていた。
家一はそれを見下ろすように木ノ芽峠に布陣する。
「者ども、細川は仏敵である!」
門徒らから成る富樫勢を前に、家一は大音声を発する。
「仏助法祐を信じよ!山科法難の折の勝利を再び遂げようぞ!」
「「おおおおおお!!」」
富樫勢は勢いに任せて攻め下り、京方は支えきれず敗走した。さんざんに打ち破られた京方の首級は4千とも5千とも伝わっている。
この勝利によって京方は近江を捨てざるをえなくなった。無人の野を行くように家一は瀬田の橋までを抑え、上洛はあと一息と相成ったのである。
波佐谷殿本意を遂げて、家一を三位に上らせること
近江国ではこの頃、北半国守護・京極氏も南半国守護・六角氏も管領細川家によって没落させられており(京極は隠岐へ六角は伊勢へ本国を移した)、代わりにその守護権を委任されていたのは管領・細川氏久に重用された僧の恵悟であった。
管領細川家のかつての当主・細川政元は比叡山延暦寺と対立すると、自らの息のかかった僧を別当として延暦寺に送り統制した。
以後代々の別当は管領細川家の近江支配の要となり、当代がこの恵悟だったというわけである。
無論、家一と反りが合うはずがない。
家一は彼を比叡山から排するために動いた。近江国の国人らは恵悟についたが、あくまで止む無くといった様子。大きな戦にはならなかった。家一は比叡山を焼き、あえなく恵悟は落ち延びていった。
こうして、京極も六角も延暦寺さえも駆逐された後の、均されて安穏な近江国を家一は手に入れたわけである。
さて、同じころ右筆の堀江景規が若狭から戻ってきた。
先々代・政親の頃から右筆を務める重臣中の重臣である。家一入嗣の折には色々と悶着もあったが…いずれにせよ今は家一によく仕えていた。
「武田上野介殿に目通りかないましたぞ」
「して、上野介殿のお答えは」
「我が方に転ぶとの由に」
「でかした丹波よ!」
「諸将に文を出せ。近江で軍を整えて上洛へ向かう」
「はっ」
弘治3年(1557年)のこと、近江と若狭を平定し上洛の準備を済ませた家一は、兵一万余りで瀬田橋を渡り粟田口を超えてどっと京へ入った。
従うのは中央に温井親宗、右翼を稲葉永通。家一自身の本陣は左翼に置かれた。まさに富樫勢総出といった陣容である。対する京方も両細川の当主、頼以と義晴が出陣した。
山科の北で両軍は合戦を構えた。
はじめ京方4千は岡崎あたりで応戦したが追いまくられ、次いで鴨川まで押し込まれ、あげく温井親宗の手勢に切り崩されて、歴々1500余りが討ち死にした。
京方は退いて300ほどの小勢で室町の御所に籠ったが、家一はこれを焼き出して破り、その勢いのまま上京も下京も抑えてしまった。
結局細川勢は将軍を連れて、山陽道を通り本国へ下っていった。
まもなく山城国は全て落ちて、家一の上洛戦は終わりを迎えた。
合戦が終わると家一は下々の兵に厳重に乱暴狼藉を禁じ、整然とした振る舞いで京の市中を警備させたから、人々もこれを歓迎した。
時勢が落ち着くのを待ち、富樫家が奉ずる公方である足利行氏も入京し、六条の本圀寺を仮の居所とした。行氏は家一を招くと三献の礼でもって馳走し、みずから酌をし、剣を下賜した。
「富樫介の忠勤は天下に比類がないものだ。今後ともひとえにお主を頼みにするほかあるまい」
「もったいなきお言葉にございます」
更に家一は感状を授かった上で、行氏の推挙を受け従三位左京大夫にまで上った。末代までの面目である。
叙任の折、家一はまさに天下人といった威儀で輿に乗り歩騎を引き連れ内裏へ参内に向かったが、都人はその様子を一目見ようと山を成して見物した。
十余年前、まだ家一が京にいた頃を知る者たちは「山科のうつけの三男坊が、今や天下の富樫三位とは」と感心して目を細めたという。
*1:実を言うと、同プロビ内で州都を変えただけでは遷都にならず、首都固有建築物を建てることができません。今回はどうしてもロマン的に尾山城(金沢城)を建てて首都にしたかったので、一旦もともとの首都である野々市城を今にも死にそうな独身の延臣に与えるという面倒な手段を踏んで野々市城の首都判定を消して、その後野々市も回収しました。
*2:ゲーム仕様上のことを言うと、京都周辺の北畿内を領地に収めることで帝国級タイトルである将軍号へのクレームを得やすくなります(正確に言うと、北畿内王+1王位か西関東王位+1王位か、あるいは4王位でクレーム請求へのディシジョンが解放されます)。そのためNMIHプレイヤーは自然と、上洛か鎌倉制圧へのインセンティブを持つことになります。
*3:NMIH独自の公爵級侵略CBをつかいました。法律技術を一定以上あげると、公爵タイトルを対象にした侵略が可能になります。
*4:門徒の僧兵は一向宗門徒しか雇えない上級の傭兵…のはず。自信はありません。騎兵はいないが豊富な重装歩兵が特徴。
*5:NMIHでは一定の条件を満たすと、他国の封臣を寝返らせることができます。右筆の関係改善コマンドは寝返りのために非常に有用です!同じ理由でSwayもよく使います。