ゲームのはなし諸次第

パラドゲーのAARを置くつもりの場所

政親のこと①(1488年~1499年)

闔国騒擾し、政親落ち延びること

月の出ぬ夜。加賀国野々市の守護館から、数人の武者が刀だけを下げてひっそりと抜け出そうとしていた。女房衆と子供たちがそれに続く。

1488年の加賀国
富樫氏が守護を務めるが…

「決して声を上げてはならぬ。具足は音が出る、捨て置け。灯りも無用」

壮年の男が密やかに周りの者へと言う。その声は口惜しさからか、怒りからか、あるいは怖れから、わずかに震えている。男の名を富樫介政親といった。

富樫政親
富樫介 加賀守護
勇武の人だが酷薄なところがあった

一行は人目を避け、足早に街道を離れ進む。政親は加賀を出て越中へと落ち延びようとしていた。守護がその領国を逃げ出る…しかも累代にわたり治めた地である。

悔しさに涙を流す近習の一人は言う。

「高尾の山城に籠る策もございます。建武中興の頃より加賀は富樫の御家の地にして…」

「何度も言わすな。やつらに今は抗えぬ」

一行はいよいよ加賀と越中の国境の倶利伽羅峠を眼前にすると、振り返り自らの国を見渡した。

国中で無数の松明の灯りが揺らめき、数で夜星に勝るように見える。人々は大音声で念仏を唱え合っており、その声は遠くこの地にまで聞こえてくるような気さえした。

「まるで国が燃えているようだ」一行の誰かが呟く。いつか再びこの地を再び取り戻すと心の中で誓いながら、政親はまた歩み始めた。

鈎の陣のこと

なぜこのような次第となったか。それを語りきるには墨も紙も足らない。少なくとも、きっかけは時の公方・足利義尚の近江親征である。

この親征は陣が置かれた地の名から「 鈎の陣」と呼ばれた。

鈎の陣
義尚は低下していた将軍の指導力を発揮すべく
この時幕政に反していた六角高頼を討とうした

政親もこの陣に加わり、諸将に先んじようと多くの兵と銭を出した。無論それは加賀の民を苦しめることになる。

民心は富樫から離れ、かねてより加賀の地に根を張る本願寺は窮民や国人と結んで宗徒の軍勢を起こしたのだ。一揆である。

長享の一向一揆
本願寺による加賀公爵級タイトル剥奪戦争
富樫勢1700 VS. 本願寺勢4500の絶望的な戦い

本願寺教団勢力図
京畿のほか加賀・越中にも領地を持つ

一向宗信仰の広がり(黄色)
蓮如による布教により北陸諸国は真宗一色

政親は義尚に帰国を願い出て、陣から去ることになった。幕府軍が近江にくぎ付けにされている今、政親は独力でこれに対処せねばならないからだ。

公儀への忠節で知られた政親にこれ以上に悔しいことはない。

足利義尚
硬骨の青年公方
「陣払いは許すが、援軍には期待しないでくれ」

幕府の力なしに数で勝る一揆勢を押しとどめることは、政親にはできなかった。緒戦こそ兵1700を引き連れ本願寺の小勢を破れはした。

加賀の本願寺勢を破る
少数の封臣軍しか出てこないうちに削っておく
ライフフォーカスも軍事にして少しでも兵力を稼ぐ

しかし京畿の本願寺勢本隊が加賀へ着く頃には、兵を温存すべく越中へ落ち延びることになったのである。

政親加勢を得て、加州平定に向かうこと

政親が越中へ向かったのは何も無策ゆえというわけではない。政親はこの地でとある人物に助けを求めるため会見に臨んだ。

姉小路基綱
飛騨大野 小島城主
歌人で知られる公卿

姉小路基綱は混乱する飛騨を抑えるため同盟を欲しており、政親とは利益を共有していた。基綱との目通しが叶うと、政親は基綱の娘・済子を娶る形での同盟を説得した。

「古くは戦国策に、唇亡びて歯寒しと言います。加賀が本願寺の手に落ちれば、それはいずれ飛騨へと至るでしょう!」

「ううむ…」

これには基綱も言葉がなかった。兵800の加勢を得ることに成功したのである。

同盟と援軍要請に成功

後は時間との戦いであった。政親は今度は倶利伽羅峠を逆に進んで加賀へと軍を返し、一揆方に制圧されていた白山郡を取り戻した。逆に一向宗門徒らは石川郡を我が物にしようと動く。

ただ、数に劣る富樫勢と地の利に劣る一揆勢は互いにそれ以上動くことができなかった。*1

睨み合い
山岳地形を利用して白山郡に籠り
本願寺の損耗を待つ

いずれ一揆勢は城攻めで疲弊する。そこを狙えば勝算は十二分にある。そう政親は考えていた。だがこの膠着は意外な形で終わった。急の知らせが政親のもとに入ったのである。

管領細川政元および
越中守護・畠山政長本願寺領へ侵攻
(赤色が反本願寺勢 緑色が本願寺

「義尚様は援軍は頼るなとおっしゃっていたが…なんとありがたい!」

将軍の要請のためか、あるいは私利のためかは分からないが、本願寺は四方に敵を抱えることになった。この窮状のためか一揆勢は焦り、勝敗を決しようと白山郡の富樫勢へと野戦を挑みかかった。

鳥越の地で両者はぶつかったが、政親は山間の地を生かして良く迎え撃った。

鳥越の戦い
山岳防衛戦・渡河防衛戦・当主在陣ボーナス等バフ全部乗せ
数に劣るも互角以上の戦いに

「仏敵・富樫政親の首を獲れ!」

「この政親に続け! 妙見菩薩の加護は我が方にあるぞ!」

政親は中央を率いて奮戦した。数刻のあいだ鋭鋒突きあう乱戦が続いたが、富樫勢は一揆勢を寸断することに成功した。

敗れた一揆勢の戦死者の数は千弱にも及び、敵将の一人である本願寺蓮乗が自刃。手取川は血に染まることになった。*2

勝利!
占領で戦勝点を稼がれる前に間に合った

名将の指揮官traitも獲得

以後一揆勢の勢いは弱まり、富樫勢は占領されていた諸城を解放していった。敗れた本願寺門徒たちはこれを眺めているほかなく、石川郡と白山郡が政親の元に戻ると本願寺蓮如は政親へ和睦の使者を送ってきた。

本願寺蓮如
権大僧都 本願寺法主
「元よりこたびの一揆には反対であった…」

本願寺から贖金200貫が支払われ、講和と相成ったのである。つい一年前、音を消して去った野々市の守護館へと戻ってくることが出来たのである。

政親はこれに泣いて喜んだという。

本願寺に勝利!

教育Traitも成長
この一連の戦いで政親の将としての器量は高まった

ただ、もちろん本願寺と富樫氏との緊張関係それ自体が終わったわけではなかった。加賀5郡のうち加賀・能美・江沼の3郡は本願寺による支配を受けている。

これを取り戻さねば加賀の安寧はなく、政親の目的はその奪還にあった。

富樫氏(白)と本願寺(えんじ)に
分断された加賀国

そして、もはや本願寺にはこの流れに抗する力はなかった。先の講話より5年後の明応5年(1496年)、政親は再び軍を起こした。目的は加賀平定である。

加賀統一戦争
加賀のde jure領すべてを請求

侵食され弱体化した本願寺
摂津西成と越中西砺波を失陥している

本願寺がこの戦いに用いることができた兵は3000に満たなかった。足軽が殆どの本願寺勢は、侍衆主体の富樫・姉小路勢に再び蹴散らされた。*3

加州の各寺の住持として本願寺勢を率いた蓮如の息子たちは、捕らえられる者もいれば、法主に逆らい守護方へ転ぶ者さえいた。

捕縛された蓮如四男・蓮誓

寝返りをした蓮如三男・蓮綱

いずれにせよ、本願寺の支配権は加賀から一掃され。この戦いに敗れた加賀の各寺は守護たる政親に従い、富樫氏の加賀支配が復権することになったのである。

加賀国の統一

加賀統一時の政親
軍略家として大成する*4

政親のこと②(1499年〜1511年)につづく

*1:今回選んだ戦略は、本願寺軍に全土占領される前に白山郡に篭ろう…という物です。CK2の戦争は占領か会戦で戦勝点を稼ぎ、100点になると勝利あるいは敗北するというシステムです。富樫領のうち石川郡を占領されるだけでは100点には達さないので、白山を守り切ればいずれ白紙和平には最低でも持っていける…という算段です。同盟相手に姉小路氏を選んだのは、この戦略的に大兵力よりもすぐさま一緒に白山に入ってくれる近場の勢力の方が適していると思ったからです。

*2:ここで勝てたのは正直ラッキーでした! 兵種構成が全勢力ほぼ同じなNMIHの戦争は士気ボーナスを稼ぐことが特に大事なので、当主に軍勢を率いさせてボーナスを得ることは常に有用です。ですから基本的に勢力が育ち大兵力を運用できるようになるまではライフフォーカスは軍事を選ぶのが個人的好み。また、NMIHは直轄領がバニラより多くできるバランスなので、直轄領の動員兵力に絡む軍事ステータスの重要性はバニラ以上に高いです。同じ理由で管理フォーカスも強いと思います。

*3:本願寺一向宗限定の寺社領建築物がある関係で、足軽つまり軽歩兵を通常の勢力よりも多く動員することができます。逆に言えば兵力が同数ならば兵質差で大体勝てる印象。

*4:軍事教育の利点は、教育特性が非常に成長させやすい点です。こまめに戦場に出したり軍事フォーカスを選んでいれば容易にTier4の軍事特性にすることができるのでおすすめ。